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倭国三十国の位置

 投稿者:y。nagase  投稿日:2015年 6月27日(土)14時40分33秒
  倭国の国々は、紀元前の時代に統一されました。「倭女王・卑弥呼」が誕生する以前の時代です。倭国を統一したのが、三国盟主王連合ですが、この連合体は二つあり、一応、新、旧三国盟主王連合といっています。旧三国盟主王連合は、卑弥呼の側近となっており、「卑弥呼」と共に「伊都国」の糸島にいます。
新三盟主王連合は、卑弥呼の母国「邪馬壱国」内に軟禁拘束されていましたが、「狗奴国王」に占領されました。

旧三国盟主王連合…弥奴国王、斯馬国・伊万里地区王、好古都国王
新三国盟主王連合…弥奴国王、斯馬国・九十九島地区王、好古都国王

国名の先の数字は、倭人伝に書かれた順番です。

一番の盟主王が、「弥奴国王」です。

11,已百支国…佐世保湾を国内とする
13,郡支国…西彼杵半島を国内とする
14,弥奴国…島原半島、多良岳、長崎半島を国内とする
22,鬼国…熊本平野の金峰山を国内とする
21,華奴蘇奴国…泗水、西合志、合志地域
23,為吾国…菊池川が右湾曲した内側
24,鬼奴国…筒が岳を国内にする

二番目が、斯馬国です

2,対馬国…対馬
3,壱岐国…壱岐
10,斯馬国…伊万里湾を囲った東、北松浦半島
4,末盧国…東松浦半島
5,伊都国…糸島半島とその陸内
6,奴国……博多湾を囲った陸地と複数小島
7,不弥国…玄界島

三番目が、好古都国です。

15,好古都国…天草上下島
16,不呼国…八代海と海のつなぎ目で長島を含む出水市、高尾野町、野田町、阿久根市地域
17,姐奴国…八代平野
8、投馬国…宇土半島を含んで緑川の南面大地
18,対蘇国…緑川と加勢川に挟まれた大地
19,蘇奴国…白川と木山川の間で江津湖より上方
20,呼邑国…江津湖の西方となった白川と緑川の間

この他に「卑弥呼」同盟国の国々
25,邪馬国…有明海に面して筑後川から諏訪川(関川)くらい
26,躬臣国…筑後側東側に沿って久留米市位まで
27、巴利国…筑後川、久留米市上流南側
12,伊邪国…有明海面嘉瀬川から塩田川位の範囲
9,邪馬壱国…筑紫平野」、
29,烏奴国…宝満川を国内として「
28,支惟国…筑後川上流の北側にがあります。
二度目に書かれた …… 奴国(ナ)
30,狗奴国(クナ)… 関門海峡から国東半島までと遠賀川を中心にして倭国の隣国

上記、一番目の「弥奴国盟主王」、二番目の「斯馬国盟主王、三番目の「好古都国盟主王」が、連合して倭国を統一しました。 盟主王国連合という形に対して、中国が倭国と名付けました。

倭国に対する一般的な解釈は、「醜い、曲がってる、歪んでる」と言われますが、
中国は、古代からの歴代独裁体制です。独裁体制でない国の統一などあり得ない。したがてジャパン(倭国)に対して「醜い、曲がってる、歪んでる」と表現したかと思います。

上記、国位置比定に関して、誰もが異議を感じることがあります。「南」です。
「不弥国」から南水行20日「投馬国」。、「投馬国」から水行10日、陸行一ヶ月「邪馬壱国」の「南」です。

では、「南」で示された「投馬国」「邪馬壱国」二度目の奴国の南に「狗奴国」あり、
「南」で方向指示された「投馬国」「邪馬壱国」「狗奴国」には、何があるか?

「投馬国」…官;弥弥「狗奴国王・狗古智卑狗、卑弥弓呼、弥弥」と業績による変名の「狗奴国王」です。

「邪馬壱国」…「倭女王・卑弥呼」の母国「邪馬壱国」です。

「奴国」の南「狗奴国」…国東半島から遠賀川を領有し倭国の隣国。
みんな倭王権や王権を持つ国です。


ここで、地図上で地形の解る「末盧国、伊都国、奴国、不弥国」から地形の解らない「投馬国、邪馬壱国」の国々を解明してみます。


4,末盧国(マツロコク)
x・複合立体形が 立体的に 分かれる
  陸地・複合立体形の 立体内に 交わって
x・集合一体形が 立体的に 交わる
  海中・集合一体形を 立体内に 交わり
x・離れ形が 立体的に 集まる
  唐津湾、仮屋湾・離れ形を 立体内に 集める
x・立体形が 立体的に 集まる
  半島・立体形が 立体内に 集まった
x・立体形が 立体的に 交わる
  国・立体形を 立体内に 交える
マツロコクを簡略に書き直しますと、
陸地に交わって海中に入り、唐津湾、仮屋湾を集めて、半島が集まった国を交える。


5,伊都国(イツコク)
x・接続形が 立体的に つながりきる
  海中・接続形の 立体内に なった
x・集合一体形が 立体的に 交わる
  糸島・集合一体形を 立体内に 交わる
x・立体形が 立体的に 集まる
  糸島市周囲・立体形を 立体内に 集めた
x・立体形が 立体的に 交わる
  島、陸地・立体形を 立体内に 交える
海中内になる糸島を国内に交わった、糸島、糸島市周囲が集まった、島、陸地を交わる。


6,奴国
x・集合内分割形が 立体的に 分かれる
  博多湾・集合内陸地、複数小島が 立体内に なる
x・立体形が 立体的に 集まる
  陸地、小島・立体形を 立体内に 集めた
x・立体形が 立体的に 交わる
  陸地、小島、・立体形を 立体内に 交える
博多湾形成、陸地、複数小島が集まった、陸地、複数小島を交える


7,不弥国…玄界島

ここから「水行20日投馬国」は、倭王権を持つ弥弥のいる「投馬国」まで水行20日
「投馬国」は、何処か?
x・集合 一体形が 立体的に 集まる
   橘湾、八代海、水路・集合一体形を 立体内に 集めた
x・接続形が 立体的に 交わる
   湾水・接続形の 立体内に 交わり
x・複合立体形が 立体的に 分かれる
   大矢野島、維和島、戸馳島、宇土半島先端・複合立体形が 立体内に なる
x・立体形が 立体的に 集まる
    複数小島、宇土半島先端・立体形を 立体内に 集めた
x・立体形が 立体的に 交わる
   緑川、南面・大地を 立体内に 交わる
橘湾、八代海水路、湾水の中に「大矢島、維和島、戸馳島、宇土半島先端」が集まった、宇土半島先端、複数小島を国内にして、緑川南面も国内にする。

「投馬国」から倭王権を持つ筑紫平野の「邪馬壱国」まで、水行10日、陸行一ヶ月
「投馬国」から橘湾、島原湾、有明海を水行すると10日で「邪馬壱国」に着き、「投馬国」から陸上を行くと一ヶ月かかる

邪馬壱国
x・重なり形が 立体的に 分かれる
   有明海、筑後川・重なり形を 立体内に した
x・複合立体形が 立体的に 分かれる
   有明海、筑後川・複合立体形が 立体内に なる
x・接続形が 立体的に つながりきる
   岸辺・接続形の 立体内に つながりきって
x・集合一体形が 立体的に つながりきる
   筑紫平野・集合一体形が 立体内に つながりきる
x・立体形が 立体的に 集まる
  筑紫平野・立体形の 立体内に 集まって
x・立体形が 立体的に 交わる
   邪馬壱国同盟国々・立体形が 立体的に 交わる
有明海、筑後川連なり岸辺に筑紫平野がつながりきる、筑紫平野内に集まって、邪馬壱国同盟国が交わる


この次に書かれた国名が「斯馬国」です。
斯馬国
x・交連形が 立体的に つながりきる
   連続湾、伊万里湾・交連形を 立体内に つなげきる
x・複合立体形が 立体的に 分かれる
    東、北松浦半島・複合立体形が 立体内に なる
x・立体形が 立体的に 集まる
   半島・立体形に 立体内に 集まった
x・立体形が 立体的に 交わる
   湾内、島々・立体形も 立体内に 交わる
連続湾、伊万里湾を囲った、東、北松浦半島を国内にして、湾内島々も国内にする。

この後に書かれた国々は、東シナ海面、有明海面にかかわらず反時計回りに存在しています。
 
 

ウィキペディアから

 投稿者:ぼくひで  投稿日:2015年 3月 6日(金)21時10分30秒
  九州王朝説なんてあったんですねー。ウィキペディアでやたらと関連項目でゴリ押してくるから最近知りましたよ。こじつけがもはやギャグの域で面白かったです。
君が代や源氏物語も九州王朝が起源だったんですか、知らなかったです。まさしく古代史のロマンですね。
そのうち、侍の起源は九州王朝だとか、剣道の起源は九州王朝だとか、人類の起源は九州王朝だとか言い出しそうですね。
 

九州周旋説

 投稿者:イもうす  投稿日:2015年 2月19日(木)17時15分30秒
    はじめまして。

 川村さんの丁寧かつ明快な論証を興味深く拝見させていただいております。

 私にとって、魏志倭人伝が記す邪馬台国の所在地を解明することが現在の生きがいとなっています。

 私は、現在のところ、邪馬台国は、南九州の内陸部にあったのではないかと考えています。

 その理由は次のとおりです。

・ 方角・里数に忠実に進むと、伊都国が小城市又は佐賀市あたり、不弥国が神崎町、鳥栖市又は久留米市あたりとなると考えること。

・ 不弥国からの「水行十日陸行一月」は、有明海を南に「水行10日」で熊本中部又は南部に上陸し、更に南に「陸行1月」で九州山地を超え、鹿児島県東部又は宮崎県西部に至る行程を示していると考えること。
  「水行」のみでなく、「一月」も「陸行」する理由は、邪馬台国が「水行」のみではその近くまで到達できない内陸部にあったためと考える。

 ※ 1里の長さは、壱岐島の大きさの表記などから、短里であったと考えます。
 ※ 「東行至不弥国百里」の起点を奴国ではなく伊都国とする理由、また、「水行十日陸行1月」の起点を投馬国ではなく不弥国とする理由は、川村さんが論証されたとおりです。


 また、邪馬台国 ≠ 女王国 であり、
邪馬台国 + [斯馬国 ~ 奴国(又は烏奴国)] = 女王国 と、
そして、斯馬国~奴国の国々は、南から北に順に並んでいたと考えます。
 なので、この奴国は、伊都国の次に登場する奴国と同一であると考えます。

 さらに、「・・・次有奴国此女王境界所盡」に続く「其南有狗奴国」の「其南」は、奴国の南を表し、このため、狗奴国は、福岡県南部又は熊本県北中部にあったと考えます。

 これらの考えは、一部を除き、金谷香史という方がアメーバブログに掲載している「邪馬台国九州周旋説」
http://ameblo.jp/y52yd/theme-10041171851.html
に拠っています。
 「邪馬台国九州周旋説」では、奴国、不弥国、投馬国及び邪馬台国へのいずれの行程の起点も、伊都国としていますが(放射説)、川村さんの論証のとおり、投馬国及び邪馬台国への行程の起点を不弥国と修正しています。

 私は、これより説得力のある説に出会ったことがありません。
    川村さんはいかが思われますか?
 まずは、「邪馬台国九州周旋説」
http://ameblo.jp/y52yd/theme-10041171851.html
をご覧いただきたいです。


≪イメージ≫

末盧国



      伊都国 → 不弥国
                          ↓
           <奴国    ↓        >
                  ↓ ↓      ↑
                  ↓ 狗奴国
                  ↓
                  ↓
        (熊本県の中部又は南部に上陸)
                  ↓
                  ↓
                  ↓
                  ↓
                  ↓      ↑
                  ↓  (女王国構成各国)
                  ↓      ↑
               <邪馬台国    >
 

講演会「行田の古代史を探る」開催!!

 投稿者:gyodatabi  投稿日:2014年 9月17日(水)23時47分48秒
  こんにちは、

告知失礼いたします。

10月4日午後1時から埼玉県行田市佐間の
行田市教育文化センター「みらい」で、
埼玉古墳群を始めとする行田の古代史を探る
講演会「行田の古代史を探る」が開催されます。

講師は、「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイン・作画監督として知られ、
「ヤマトタケル」など神話や古代史をテーマとした作品を描かれている
漫画家”安彦良和”先生 など下記の3名の先生方です!!

第1部
「古代に想いを馳せる~ワカタケル大王とオワケの臣~」
講師:漫画家 安彦良和 先生

第2部
「埼玉古墳群 七つの謎を解く」
 講師:埼玉考古学会会長 高橋一夫 先生
「さきたま地域の埴輪」
講師:大正大学教授 塚田良道 先生

入場料は無料です!

申し込みは、氏名、住所、電話番号、メールアドレス、
申し込み人数(3名まで)を記入して
bunka@city.gyoda.lg.jp までメールしてください。入場整理券をお送りいたします。
(先着順、定員になり次第締め切ります。)

ぜひ、お申込み、ご来場ください!!

http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/kodaisiwosagurukouenkai.html

 

バックラッシャー

 投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 9月 8日(月)22時44分3秒
  うわっ、なに今のここの反動臭…  

(無題)

 投稿者:皇国の護国運動家メール  投稿日:2012年 2月25日(土)21時12分8秒
  '''多元王朝説'''は、古代および中世の日本列島には複数の王朝と大王が並立・連立して存在したとする仮説である。
論拠は[[前方後円墳]]の形が地域によって微妙に異なること、「その時代の日本列島は一つの統一王朝によって運営されていた。」という明確な記録がどの文献にも存在していない事、そして、古代中国王朝側の文献からの歴史の記述に頼らざるを得ない点などである。
主な提唱者は[[古田武彦]]である。「多元的古代史観」という用語もある。主に、[[ヤマト王権]]を中心として王朝が各地に分布していたという説、そして、大和王権と九州倭王朝の両勢力が並立して存在していたとする九州王朝説に分かれる。

== 九州王朝 ==
天孫降臨として伝えられる出来事(BC2世紀)から、702年(670年、704年とする説もある)の間、筑紫に中国王朝に朝貢し、朝鮮半島に出兵した王朝があったとする。[[邪馬壱国]](邪馬一国)や[[倭の五王]]、『[[隋書]]』「東夷伝」に記された[[俀国]](俀国は倭国の誤記後刻ではなく、俀(タイ)国と考える)も九州王朝とする。[[磐井の乱]]や[[継体の乱]]はなかった、と最近主張されている。詳しくは([[九州王朝説]])を参照
=== 倭の五王 ===

さて、『三国志』に続く史書、『[[宋書]]』には、有名な「[[倭の五王]]」が登場する。倭の五王は、応神(第15代)から雄略(第21代)の7人の天皇のうちのいずれかにあたると、従来言われている。

それを列記しよう。

<ol type="1">
<li>讃</li>
<ol type="i">
<li>履中(第17代)説 松下見林・志村[木貞]幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・原島礼二</li>
<li>仁徳(第16代)説 星野恒・吉田東伍・菅政友・久米邦武・那珂通世・岩井大彗・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野祐</li>
<li>履中もしくは仁徳説 津田左右吉・井上光貞・上田正昭</li>
<li>応神(第15代)説 前田直典</li>
</ol>
<li>珍</li>
<ol type="i">
<li>反正(第18代)説 前田直典以外</li>
<li>仁徳説 前田直典</li>
</ol>
<li>済</li>
<ol type="i">
<li>允恭(第19代)説 異説なし</li>
</ol>
<li>興</li>
<ol type="i">
<li>安康(第20代)説 水野祐以外</li>
<li>木梨軽皇子説 水野祐</li>
</ol>
<li>武</li>
<ol type="i">
<li>雄略(第21代)説 異説なし</li>
</ol>
</ol>
(水野祐は『梁書』の「弥」を1.と2.の間に入れこれを履中とする)

この内、前田・水野の両説は異色の説であり、孤立している。したがって、他は2.~5.については一定している。1.の讃だけが各学者の意見が分裂しているのである。

さて、武が雄略に当たると言うのであれば、当然その4代前の讃は履中でなければならぬ。しかし、この比定には、重大な矛盾がある。

晋安帝の時、倭王賛有り梁書倭伝

(晋安帝、義熙九年)是歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず晋書安帝紀

によれば、讃(賛)は東晋の義熙九年(413)に既に朝貢している。宋書に登場する元嘉二年(425)まで、少なくとも足掛け13年は在位していたことになる。さらに、次の珍は元嘉十五年(438)に貢献し、受号している(宋書文帝紀)。したがって、讃・珍の二代の在位年数の合計は少なくとも26年以上ということになる。讃は義熙九年(413)以前の数年を加えなければならないだろうし、珍も次の済の貢献年次(443)までの何年かを加えねばならぬ可能性が充分にある。ところが『[[日本書紀]]』によれば、履中(六年)・反正(五年)の在位年数の合計(11年)は、先の最小年数(26年)の半分にも満たない。一般に「書紀」の在位年数は「実数値より多い」のであって、これは矛盾である。そこで、讃=仁徳説が浮上するのである。だが、ここで新たな矛盾が生じる。『宋書』では、珍は讃の弟である。一方、仁徳は履中・反正との関係は親子である。

それで両者が激しく論争をするのだが、外から見れば、問題はハッキリしている。どちらも矛盾している。どちらの説も成り立たぬ。こうして、そもそも、「倭の五王」を「[[天皇家]]」に当てる試みは、正しかったのか?という問いに進まねばならないのだ。

さて、倭の五王のなかで、比定すべき天皇がもっとも確実だとされるのが「武」だ。ところが、「武」には奇妙な問題がある。『宋書』の次の『[[南斉書]]』『[[梁書]]』にも「武」が登場する。

建元元年(479)進めて新たに使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す南斉書倭国伝

(天覧元年、502)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ梁書武帝紀

日本書紀に依れば雄略の治世は456-79だから、梁書の「武」は雄略の治世をはるかにオーバーしてしまう。502年といえば、『日本書紀』なら雄略より4代あとの武烈の治世であり、「武」は雄略-清寧-顕宗-仁賢-武烈の各治世にまたがっている。このような事実が、「武」と雄略は同一人物でないことをハッキリ示している。

さて、「倭の五王」問題の根本は名前である。中国風の一字名だ。一般にこのように解説されている。
# [[倭国]]側は記紀のように、倭名を表音表記したもので書いた(或は口で述べた)
# [[中国]]側はこのような長い漢字の連なりを、人名にふさわしからず、として、これを中国風の一字名に書き換えた。
# その際、倭国側の書いてきた(或は口で述べた)「長たらしい名前」の一部を切り取るという手法を用いた。
# その際、中国側であやまって文字を書き換えたり、同じ意味の別字に書き換えたりした。(伝写の誤りも含む)

これは本当だろうか。『宋書』の夷蛮伝には数多くの夷蛮の人名が載っているが、それが3字だろうと4字だろうと、7字だろうと、原音のまま表音表記されている。これは、『南斉書』『梁書』も変わらない。『魏志倭人伝』も倭の女王の名は「卑弥呼」と記されており、一字を勝手に切り取って載せると言うことはしていない。後の『隋書』も同じだ(「多利思北孤」)。

では、一字名はどこから生まれたのか。百済伝・高句麗伝をみれば、その王達は「余映」「高[王連]」などの中国名を名乗っている。これらは自ら中国風の名を名乗ってきたのだ。(いわゆる「五胡」も、中国の文化を受容するにつれ、中国風の名称を用いるようになっていった)「倭の五王」もその例である。

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。


=== 高良記 ===
[[高良記]]二は九州王朝の系譜が記されている。まず、高良大神の孫をその子孫として、*(1)斯礼賀志命神、(2)朝日豊盛命神、(3) 暮日豊盛命神、(4)渕志命神、(5)谿上命神、 (6)那男美命神、(7)坂本命神、(8)安子奇命神、(9)安楽応宝秘命神
といった神が記されており、さらに、 *<1>物部日良仁光連、<2>日往子明連、<3>日男玉頼連、<4>神力玉依連、<5>日光玉一連、<6>日往玉尊連、 * 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩といった系譜がある。この中には「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号があり、興味深い。九州王朝説の根拠の一つであり、これは九州王朝において[[天皇制]]が施行されていた根拠である。従って、大和王権は九州王朝の「天皇」の下の「大王」としての位取りであった。

== 出雲王朝 ==
[[出雲国]](いづものくに)[[古代出雲]]を参照。(『[[出雲国風土記]]』、『[[国引き神話]]』)

== 近畿・大和王朝 ==
[[ヤマト王権]]を参照。
[[神武天皇]]は、実在したとする。神武天皇は福岡県の日向川のあたりから[[銅鐸]]の中心地である大和に東侵したとする。[[継体天皇]]の時に王朝交代があったとするが、[[応神天皇]]の時は王朝交代はなかったとしている。また、[[仁徳天皇]]の前に[[宇治天皇]]がいたとする。([[播磨国風土記]]から)

== 関東王朝 ==
[[稲荷山古墳 (埼玉県)|稲荷山古墳]]の被葬者は関東に存在した王朝の「加多支鹵大王」に仕えていたとする。

== 東北王朝 ==
[[角塚古墳]]において出土した埴輪より、ヤマト王朝勢力が北上した、と一般的には考えられているが、[[和田家文書 (和田喜八郎)|和田家文書]](東日流外三郡誌、等)から、九州王朝から逃げた安日彦の子孫による王朝があったとする。和田家文書にでてくる[[長脛彦]]は九州の豪族としている。ただし一般に[[偽書]]とされる[[古史古伝]]が根拠なので、学会からは異論が多い。(例外として、[[新しい歴史教科書]]賛同者の[[笠谷和比古]]等がいる)

== 12年後差説 ==
[[日本書紀]]の継体天皇から皇極天皇に関する記事は12年の誤差があるとする。[[聖徳太子]]や[[乙巳の変]]もこれによる。
== 天孫降臨 ==
現在ではニニギノ命(天津日子番能迩迩芸命)は伝説の人物とされているが、彼は実在し、弥生時代前期末の紀元前2世紀に[[パラオ]]から、[[筑紫]]博多湾岸に侵入したと考えられる。

ニニギは板付遺跡の日本人(ひのもとじん)を襲い、そして現在の福岡や前原を支配した。襲われた日本(ひのもと)人はよく戦いましたが負け、現在東北地方の津軽(東日流)に行きました。その結果、[[#東北王朝|東北王朝]]が誕生した。

この出来事が、古事記で書かれている「天孫降臨」であり、古事記によれば、ニニギは天国から北九州の筑紫の高千穂のクシフル峰へ降りました。この降りた所は韓国が見えるところで、実際高千穂(たとえば高祖山)からは晴れた日には韓国が見る。このことから天孫降臨の地は北九州ではなく南九州であるといえる。

この「天孫降臨」の出来事が、九州の考古学で言われる「前末・中初」の切れ目、すなわち弥生時代の前期と中期で考古学の出土物が一変する原因で有ると考えられる。

「竺紫の日向の高千穂のくしふる嶺に天降りまさしめき。」(『[[古事記]]』)について、[[古田武彦]]はこれを、〃[[筑紫]]([[福岡県]])の[[日向]](ひなた)の高千穂(高い連峯)の中のクシフル峯(だけ)〃と解した。

== 邪馬壹国九州説 ==
[[魏志]]の里程はすべて短里で記されており、従って[[邪馬台国]]或いは[[邪馬壹国]]は九州である、とする。この説は、[[安本美典]]、[[古田武彦]]等によって提唱され、[[谷本茂]]により「一里=77メートル」とされた。
=== 短里 ===
魏志倭人伝の中で最も重要な位置を占め、最も軽視されてきたもの、それは「里程」である。

「郡より倭に至るには…」で始まり、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所」に至るまで、方角と里程を順次示している。『三国志』において、このような記載は他にない。このような実態をもつ魏志倭人伝の「里程」記事が、これまで軽視されてきたのは、「魏志倭人伝の規定記事には誇張がある」と従来言われてきた為だ。

なぜか。それは、魏志倭人伝に見える「里程値」が、われわれの通常知る「里」単位では、あまりに距離が長過ぎる為である。魏志倭人伝には、帯方郡治から倭国の首都までの距離が、「万二千里」とある。これは、われわれの常識的な里(漢の「里」なら一里=約435メートル)で言えば、5220キロであり、とても日本列島には収まらない(記述どおりに主に南へ進路をとった場合)。この為に、「倭人伝の里程は信用できぬ」と従来言われてきた。一方では、「方角」が信用できぬと言われてきたのである(南を東に改定し、近畿を目指す論者)。

しかし、「魏志」に記載されている「里」を詳細に検討してみると、以下のことが言える。

韓伝によれば、韓地の面積は「方四千里」である。これは、「方~里」の用法から、「一辺四千里」の四角形に外接する面積」である。朝鮮半島の東西幅は300~360キロであり、これが「四千里」であるという。これは、「漢の里」なら「約7~800里」であるべきであり、魏志の記述はその5~6倍ある。(韓地の東西幅は、朝鮮半島の東西幅と同じ)

通例、魏志倭人伝の里程には約5倍の誇張がある、とされているが、ちょうど、韓伝の記述も同じ「里」単位で書かれていると見なせる。ここで、以下のことが注目される。
# 韓地は、漢代においてすでに漢の四郡の置かれた土地であり、陳寿の時代(魏→晋)においても、周知の土地である。ここに、5倍もの誇張を書くべきところではない。
# 韓地の北境は帯方郡と接している。すなわち、韓地の北境=中国直轄領の南境といえる。中国自身の直轄領に対して5倍もの誇張を書くべきいわれはない。
# 倭人伝において、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る、七千余里」の記述は、帯方郡治を起点とするから、「帯方郡治→韓国」を含む表現である。したがって、この七千余里も、「中国国内と韓国」ともに同じ「里」単位で示したものと見なさなくてはならない。
# 同様に、「郡より女王国に至る、万二千余里」も、「帯方郡→韓国」「韓地内」を含むから、ともに同じ「里」単位で示したと見なさざるを得ない。
# 魏志全体の「里」単位を抽出すると、すべて(その実距離が判明するもの)、韓伝、倭人伝のそれと同一の「里」単位であると見なせる。

以上のことから、「魏志」においては、「漢の里」の約5~6分の1の「里」単位を使用してたことがわかる。「短里」である。朝鮮半島の東西幅(300~360キロ)=四千里であるから、この「短里」は一里=75~90メートルである。また、倭人伝において、壱岐に当たることが確実視されている「一大国」の面積が「方三百里」としているから、一里は75メートルに近い値であると考えられる。この短里は、「魏志」のほか、「江表伝」「魏略」「海賦」等の魏晋朝の文献にも認められ、魏晋朝において使用されていた、「里」単位であることは疑いない。また、「周髀算経」の研究(谷本茂氏)により、この「短里」が周代に用いられた「里」単位と一致することがわかっている。秦・漢において廃止された「短里」が魏晋朝において復活したものと考えられる(魏晋朝の「復古主義」)。

以上によって、魏志倭人伝における「里程値」が決して誇張などでなく、当時用いられた「短里」による「実定値」であることが判明する。
=== 道行読法 ===

倭人伝には二つの「里程」が存在する。一は、帯方郡治から倭国の首都に至る間の各「区間里程」である。二は、同じ距離の「総里程」である。したがって当然、「区間里程の総和は総里程」である。

では、その両者(区間里程と総里程)を挙げよう。

<ol type="A">
<li>区間里程</li>
<ol type="1">
<li>七千余里 帯方郡治→狗邪韓国</li>
<li>千余里 狗邪韓国→対海国</li>
<li>方四百余里 対海国の面積</li>
<li>千余里 対海国→一大国</li>
<li>方三百里 一大国の面積</li>
<li>千余里 一大国→末盧国</li>
<li>五百余里 末盧国→伊都国</li>
<li>百里 伊都国→奴国(傍線行程)</li>
<li>百里 伊都国→不弥国</li>
</ol>
<li>総里程</li>
<ol type="1">
<li>一万二千余里 帯方郡治→女王国</li>
</ol>
<li>日程</li>
<ol type="1">
<li>水行二十日 不弥国→投馬国(傍線行程)</li>
<li>水行十日・陸行一月 帯方郡治→女王の都する所</li>
</ol>
</ol>

さて、まずC.の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。これは自明の道理である。

さて、「三国志」の用法を検証すると、以下のことがわかる。「至」の用法である。

<ol type="a">
<li>進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」
行きて曲阿に至る。呉志三諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八</li>
</ol>
これが通常の形である。

<ol type="a" start="2">
<li>先行動詞なし)「至」
東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一</li>
</ol>

このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。

東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝

つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。

以上によって、その区間里程を計算してみると、(1)(2)(4)(6)(7)(9)の合計は一万六百里。B)の一万二千里には、千四百里足りない。ここで、(3)と(5)が注目される。これは従来、面積であるから「里程」に含まぬ、と見なされてきたものであるが、「道行読法」では「対馬と壱岐の半周文の道を行った」と解釈し、其の里程を加えると、ちょうど一万二千里となる。

その結果、『魏志』の里程は[[不弥国]]で終わっていることがわかる。是は不弥国と邪馬台国が接しているからである。

== 筑紫朝廷論 ==
この邪馬台国は、やがて筑紫朝廷に発展したとするのが九州王朝説である。
=== 根拠 ===
次のことから、近畿天皇家は本来九州王朝の臣下であり、白村江の戦いの前後から次第に独立していったと考えられる。
*[[新唐書|中国正史]]によると、用明天皇は九州王朝のタリシホコの補佐官であったという。<ref>「歴史ビックバン」古田武彦『学士会会報』『新古代学』収録</ref>
*神武天皇は九州から東征した。
*「大倭」や「真人」といった名称を付ける天皇もいるが、これらは九州王朝の官職名であると考えられる。
また、次の王朝も九州王朝に服従していたと考えられる。
*東北王朝は『東日流六郡誌』によると、邪馬壹国に朝貢していた。
*吉備王朝も九州王朝に従っていた可能性が高い。
*讃岐王朝は九州王朝に滅ぼされ、その後、伊予王朝が成立した。
*四国南西部にも九州王朝に服従する王朝があり、倭国と環太平洋文明圏の入り口となった。
=== 海外王朝 ===
倭国の版図は海外にも広がっており、日本列島外の倭人も独自の王朝をきずいていた、とする。
==== 南米 ====
『魏志』に出てくる裸国・黒歯国は九州王朝の朝貢国である。<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/taiheiyo/mokujita.html 倭人も太平洋を渡った(C・L・ライリー他編)]</ref>其れは以下の理由による。
*エクアドルで発見された土器と九州及び関東の縄文土器が類似している。
*エクアドルには日本語で解明できる地名が少なくない。
*[[魏志]]や[[海の賦]]では、黒歯国が南米と思われる位置に記されている。<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic41.html 「海賦」と壁画古墳]</ref>
*古代海洋民族の航海技術は決して低いものではなく、例えばパラオあたりには今でも小さい船で気軽に国境を越えた航海をする人々が存在している。倭人は海洋民族であると考えられ、そのような航海のノウハウを知っていた可能性が高い。また、[[和田家文書]]に引用されている[[天皇記]]ではパラオ人が天孫族になったとしている。
==== 豪州 ====
オーストラリアの先住民である黒人は『梁書』に出てくる「海人」である。尚、『梁書』では倭人が海人を食用にしていたと記されているが、これは古代にも人種差別があった証拠である。中南米のオルメク文明には、黒人をかたどった彫刻があるが、これは倭人によって連れてこられた黒人であると考えられる。
==== 朝鮮 ====
朝鮮は九州王朝の朝貢国であった。それは以下の理由による。
*『山海経』によると、朝鮮南部は倭人が住んでいた。
*朝鮮人は倭国に王子を人質として出していた。
==== 南洋 ====
高天野原はパラオであった。その根拠は[[和田家文書 (和田喜八郎)|丑寅日本記]]に引用されている[[天皇記]]による。

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 関連項目 ==
*[[日本神話]]
*[[古事記]]
*[[日本書紀]]
*[[日本の神の一覧]]
*[[日本の仏教]]
*[[中世日本紀]]
*[[古史古伝]]
*[[日本の古墳一覧]]

== 書籍 ==
*[[古田武彦]] 『失われた日本』
*古田武彦 『失われた九州王朝』
*古田武彦 『多元的古代の成立』
*[[竹下義朗]] 『検定不合格!教科書になれなかった歴史』
*竹下義朗 『汝の敵・赤い支那を知れ!』

== 参考 ==
*安本美典 『古代九州王朝はなかった』
*安本美典 『虚妄(まぼろし)の九州王朝』
*原田実 『幻想の多元的古代 万世一系イデオロギーの超克』

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[[Category:日本の古代国家|*]]
[[Category:日本の歴史論争]]
[[Category:日本の歴史学]]
 

(無題)

 投稿者:皇国の護国運動家メール  投稿日:2012年 2月25日(土)21時09分49秒
編集済
  '''多元王朝説'''は、古代および中世の日本列島には複数の王朝と大王が並立・連立して存在したとする仮説である。
論拠は[[前方後円墳]]の形が地域によって微妙に異なること、「その時代の日本列島は一つの統一王朝によって運営されていた。」という明確な記録がどの文献にも存在していない事、そして、古代中国王朝側の文献からの歴史の記述に頼らざるを得ない点などである。
主な提唱者は[[古田武彦]]である。「多元的古代史観」という用語もある。主に、[[ヤマト王権]]を中心として王朝が各地に分布していたという説、そして、大和王権と九州倭王朝の両勢力が並立して存在していたとする九州王朝説に分かれる。

== 九州王朝 ==
天孫降臨として伝えられる出来事(BC2世紀)から、702年(670年、704年とする説もある)の間、筑紫に中国王朝に朝貢し、朝鮮半島に出兵した王朝があったとする。[[邪馬壱国]](邪馬一国)や[[倭の五王]]、『[[隋書]]』「東夷伝」に記された[[俀国]](俀国は倭国の誤記後刻ではなく、俀(タイ)国と考える)も九州王朝とする。[[磐井の乱]]や[[継体の乱]]はなかった、と最近主張されている。詳しくは([[九州王朝説]])を参照
=== 倭の五王 ===

さて、『三国志』に続く史書、『[[宋書]]』には、有名な「[[倭の五王]]」が登場する。倭の五王は、応神(第15代)から雄略(第21代)の7人の天皇のうちのいずれかにあたると、従来言われている。

それを列記しよう。

<ol type="1">
<li>讃</li>
<ol type="i">
<li>履中(第17代)説 松下見林・志村[木貞]幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・原島礼二</li>
<li>仁徳(第16代)説 星野恒・吉田東伍・菅政友・久米邦武・那珂通世・岩井大彗・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野祐</li>
<li>履中もしくは仁徳説 津田左右吉・井上光貞・上田正昭</li>
<li>応神(第15代)説 前田直典</li>
</ol>
<li>珍</li>
<ol type="i">
<li>反正(第18代)説 前田直典以外</li>
<li>仁徳説 前田直典</li>
</ol>
<li>済</li>
<ol type="i">
<li>允恭(第19代)説 異説なし</li>
</ol>
<li>興</li>
<ol type="i">
<li>安康(第20代)説 水野祐以外</li>
<li>木梨軽皇子説 水野祐</li>
</ol>
<li>武</li>
<ol type="i">
<li>雄略(第21代)説 異説なし</li>
</ol>
</ol>
(水野祐は『梁書』の「弥」を1.と2.の間に入れこれを履中とする)

この内、前田・水野の両説は異色の説であり、孤立している。したがって、他は2.~5.については一定している。1.の讃だけが各学者の意見が分裂しているのである。

さて、武が雄略に当たると言うのであれば、当然その4代前の讃は履中でなければならぬ。しかし、この比定には、重大な矛盾がある。

晋安帝の時、倭王賛有り梁書倭伝

(晋安帝、義熙九年)是歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず晋書安帝紀

によれば、讃(賛)は東晋の義熙九年(413)に既に朝貢している。宋書に登場する元嘉二年(425)まで、少なくとも足掛け13年は在位していたことになる。さらに、次の珍は元嘉十五年(438)に貢献し、受号している(宋書文帝紀)。したがって、讃・珍の二代の在位年数の合計は少なくとも26年以上ということになる。讃は義熙九年(413)以前の数年を加えなければならないだろうし、珍も次の済の貢献年次(443)までの何年かを加えねばならぬ可能性が充分にある。ところが『[[日本書紀]]』によれば、履中(六年)・反正(五年)の在位年数の合計(11年)は、先の最小年数(26年)の半分にも満たない。一般に「書紀」の在位年数は「実数値より多い」のであって、これは矛盾である。そこで、讃=仁徳説が浮上するのである。だが、ここで新たな矛盾が生じる。『宋書』では、珍は讃の弟である。一方、仁徳は履中・反正との関係は親子である。

それで両者が激しく論争をするのだが、外から見れば、問題はハッキリしている。どちらも矛盾している。どちらの説も成り立たぬ。こうして、そもそも、「倭の五王」を「[[天皇家]]」に当てる試みは、正しかったのか?という問いに進まねばならないのだ。

さて、倭の五王のなかで、比定すべき天皇がもっとも確実だとされるのが「武」だ。ところが、「武」には奇妙な問題がある。『宋書』の次の『[[南斉書]]』『[[梁書]]』にも「武」が登場する。

建元元年(479)進めて新たに使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す南斉書倭国伝

(天覧元年、502)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ梁書武帝紀

日本書紀に依れば雄略の治世は456-79だから、梁書の「武」は雄略の治世をはるかにオーバーしてしまう。502年といえば、『日本書紀』なら雄略より4代あとの武烈の治世であり、「武」は雄略-清寧-顕宗-仁賢-武烈の各治世にまたがっている。このような事実が、「武」と雄略は同一人物でないことをハッキリ示している。

さて、「倭の五王」問題の根本は名前である。中国風の一字名だ。一般にこのように解説されている。
# [[倭国]]側は記紀のように、倭名を表音表記したもので書いた(或は口で述べた)
# [[中国]]側はこのような長い漢字の連なりを、人名にふさわしからず、として、これを中国風の一字名に書き換えた。
# その際、倭国側の書いてきた(或は口で述べた)「長たらしい名前」の一部を切り取るという手法を用いた。
# その際、中国側であやまって文字を書き換えたり、同じ意味の別字に書き換えたりした。(伝写の誤りも含む)

これは本当だろうか。『宋書』の夷蛮伝には数多くの夷蛮の人名が載っているが、それが3字だろうと4字だろうと、7字だろうと、原音のまま表音表記されている。これは、『南斉書』『梁書』も変わらない。『魏志倭人伝』も倭の女王の名は「卑弥呼」と記されており、一字を勝手に切り取って載せると言うことはしていない。後の『隋書』も同じだ(「多利思北孤」)。

では、一字名はどこから生まれたのか。百済伝・高句麗伝をみれば、その王達は「余映」「高[王連]」などの中国名を名乗っている。これらは自ら中国風の名を名乗ってきたのだ。(いわゆる「五胡」も、中国の文化を受容するにつれ、中国風の名称を用いるようになっていった)「倭の五王」もその例である。

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。


=== 高良記 ===
[[高良記]]二は九州王朝の系譜が記されている。まず、高良大神の孫をその子孫として、*(1)斯礼賀志命神、(2)朝日豊盛命神、(3) 暮日豊盛命神、(4)渕志命神、(5)谿上命神、 (6)那男美命神、(7)坂本命神、(8)安子奇命神、(9)安楽応宝秘命神
といった神が記されており、さらに、 *<1>物部日良仁光連、<2>日往子明連、<3>日男玉頼連、<4>神力玉依連、<5>日光玉一連、<6>日往玉尊連、 * 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩といった系譜がある。この中には「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号があり、興味深い。九州王朝説の根拠の一つであり、これは九州王朝において[[天皇制]]が施行されていた根拠である。従って、大和王権は九州王朝の「天皇」の下の「大王」としての位取りであった。

== 出雲王朝 ==
[[出雲国]](いづものくに)[[古代出雲]]を参照。(『[[出雲国風土記]]』、『[[国引き神話]]』)

== 近畿・大和王朝 ==
[[ヤマト王権]]を参照。
[[神武天皇]]は、実在したとする。神武天皇は福岡県の日向川のあたりから[[銅鐸]]の中心地である大和に東侵したとする。[[継体天皇]]の時に王朝交代があったとするが、[[応神天皇]]の時は王朝交代はなかったとしている。また、[[仁徳天皇]]の前に[[宇治天皇]]がいたとする。([[播磨国風土記]]から)

== 関東王朝 ==
[[稲荷山古墳 (埼玉県)|稲荷山古墳]]の被葬者は関東に存在した王朝の「加多支鹵大王」に仕えていたとする。

== 東北王朝 ==
[[角塚古墳]]において出土した埴輪より、ヤマト王朝勢力が北上した、と一般的には考えられているが、[[和田家文書 (和田喜八郎)|和田家文書]](東日流外三郡誌、等)から、九州王朝から逃げた安日彦の子孫による王朝があったとする。和田家文書にでてくる[[長脛彦]]は九州の豪族としている。ただし一般に[[偽書]]とされる[[古史古伝]]が根拠なので、学会からは異論が多い。(例外として、[[新しい歴史教科書]]賛同者の[[笠谷和比古]]等がいる)

== 12年後差説 ==
[[日本書紀]]の継体天皇から皇極天皇に関する記事は12年の誤差があるとする。[[聖徳太子]]や[[乙巳の変]]もこれによる。
== 天孫降臨 ==
現在ではニニギノ命(天津日子番能迩迩芸命)は伝説の人物とされているが、彼は実在し、弥生時代前期末の紀元前2世紀に[[パラオ]]から、[[筑紫]]博多湾岸に侵入したと考えられる。

ニニギは板付遺跡の日本人(ひのもとじん)を襲い、そして現在の福岡や前原を支配した。襲われた日本(ひのもと)人はよく戦いましたが負け、現在東北地方の津軽(東日流)に行きました。その結果、[[#東北王朝|東北王朝]]が誕生した。

この出来事が、古事記で書かれている「天孫降臨」であり、古事記によれば、ニニギは天国から北九州の筑紫の高千穂のクシフル峰へ降りました。この降りた所は韓国が見えるところで、実際高千穂(たとえば高祖山)からは晴れた日には韓国が見る。このことから天孫降臨の地は北九州ではなく南九州であるといえる。

この「天孫降臨」の出来事が、九州の考古学で言われる「前末・中初」の切れ目、すなわち弥生時代の前期と中期で考古学の出土物が一変する原因で有ると考えられる。

「竺紫の日向の高千穂のくしふる嶺に天降りまさしめき。」(『[[古事記]]』)について、[[古田武彦]]はこれを、〃[[筑紫]]([[福岡県]])の[[日向]](ひなた)の高千穂(高い連峯)の中のクシフル峯(だけ)〃と解した。

== 邪馬壹国九州説 ==
[[魏志]]の里程はすべて短里で記されており、従って[[邪馬台国]]或いは[[邪馬壹国]]は九州である、とする。この説は、[[安本美典]]、[[古田武彦]]等によって提唱され、[[谷本茂]]により「一里=77メートル」とされた。
=== 短里 ===
魏志倭人伝の中で最も重要な位置を占め、最も軽視されてきたもの、それは「里程」である。

「郡より倭に至るには…」で始まり、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所」に至るまで、方角と里程を順次示している。『三国志』において、このような記載は他にない。このような実態をもつ魏志倭人伝の「里程」記事が、これまで軽視されてきたのは、「魏志倭人伝の規定記事には誇張がある」と従来言われてきた為だ。

なぜか。それは、魏志倭人伝に見える「里程値」が、われわれの通常知る「里」単位では、あまりに距離が長過ぎる為である。魏志倭人伝には、帯方郡治から倭国の首都までの距離が、「万二千里」とある。これは、われわれの常識的な里(漢の「里」なら一里=約435メートル)で言えば、5220キロであり、とても日本列島には収まらない(記述どおりに主に南へ進路をとった場合)。この為に、「倭人伝の里程は信用できぬ」と従来言われてきた。一方では、「方角」が信用できぬと言われてきたのである(南を東に改定し、近畿を目指す論者)。

しかし、「魏志」に記載されている「里」を詳細に検討してみると、以下のことが言える。

韓伝によれば、韓地の面積は「方四千里」である。これは、「方~里」の用法から、「一辺四千里」の四角形に外接する面積」である。朝鮮半島の東西幅は300~360キロであり、これが「四千里」であるという。これは、「漢の里」なら「約7~800里」であるべきであり、魏志の記述はその5~6倍ある。(韓地の東西幅は、朝鮮半島の東西幅と同じ)

通例、魏志倭人伝の里程には約5倍の誇張がある、とされているが、ちょうど、韓伝の記述も同じ「里」単位で書かれていると見なせる。ここで、以下のことが注目される。
# 韓地は、漢代においてすでに漢の四郡の置かれた土地であり、陳寿の時代(魏→晋)においても、周知の土地である。ここに、5倍もの誇張を書くべきところではない。
# 韓地の北境は帯方郡と接している。すなわち、韓地の北境=中国直轄領の南境といえる。中国自身の直轄領に対して5倍もの誇張を書くべきいわれはない。
# 倭人伝において、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る、七千余里」の記述は、帯方郡治を起点とするから、「帯方郡治→韓国」を含む表現である。したがって、この七千余里も、「中国国内と韓国」ともに同じ「里」単位で示したものと見なさなくてはならない。
# 同様に、「郡より女王国に至る、万二千余里」も、「帯方郡→韓国」「韓地内」を含むから、ともに同じ「里」単位で示したと見なさざるを得ない。
# 魏志全体の「里」単位を抽出すると、すべて(その実距離が判明するもの)、韓伝、倭人伝のそれと同一の「里」単位であると見なせる。

以上のことから、「魏志」においては、「漢の里」の約5~6分の1の「里」単位を使用してたことがわかる。「短里」である。朝鮮半島の東西幅(300~360キロ)=四千里であるから、この「短里」は一里=75~90メートルである。また、倭人伝において、壱岐に当たることが確実視されている「一大国」の面積が「方三百里」としているから、一里は75メートルに近い値であると考えられる。この短里は、「魏志」のほか、「江表伝」「魏略」「海賦」等の魏晋朝の文献にも認められ、魏晋朝において使用されていた、「里」単位であることは疑いない。また、「周髀算経」の研究(谷本茂氏)により、この「短里」が周代に用いられた「里」単位と一致することがわかっている。秦・漢において廃止された「短里」が魏晋朝において復活したものと考えられる(魏晋朝の「復古主義」)。

以上によって、魏志倭人伝における「里程値」が決して誇張などでなく、当時用いられた「短里」による「実定値」であることが判明する。
=== 道行読法 ===

倭人伝には二つの「里程」が存在する。一は、帯方郡治から倭国の首都に至る間の各「区間里程」である。二は、同じ距離の「総里程」である。したがって当然、「区間里程の総和は総里程」である。

では、その両者(区間里程と総里程)を挙げよう。

<ol type="A">
<li>区間里程</li>
<ol type="1">
<li>七千余里 帯方郡治→狗邪韓国</li>
<li>千余里 狗邪韓国→対海国</li>
<li>方四百余里 対海国の面積</li>
<li>千余里 対海国→一大国</li>
<li>方三百里 一大国の面積</li>
<li>千余里 一大国→末盧国</li>
<li>五百余里 末盧国→伊都国</li>
<li>百里 伊都国→奴国(傍線行程)</li>
<li>百里 伊都国→不弥国</li>
</ol>
<li>総里程</li>
<ol type="1">
<li>一万二千余里 帯方郡治→女王国</li>
</ol>
<li>日程</li>
<ol type="1">
<li>水行二十日 不弥国→投馬国(傍線行程)</li>
<li>水行十日・陸行一月 帯方郡治→女王の都する所</li>
</ol>
</ol>

さて、まずC.の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。これは自明の道理である。

さて、「三国志」の用法を検証すると、以下のことがわかる。「至」の用法である。

<ol type="a">
<li>進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」
行きて曲阿に至る。呉志三諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八</li>
</ol>
これが通常の形である。

<ol type="a" start="2">
<li>先行動詞なし)「至」
東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一</li>
</ol>

このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。

東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝

つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。

以上によって、その区間里程を計算してみると、(1)(2)(4)(6)(7)(9)の合計は一万六百里。B)の一万二千里には、千四百里足りない。ここで、(3)と(5)が注目される。これは従来、面積であるから「里程」に含まぬ、と見なされてきたものであるが、「道行読法」では「対馬と壱岐の半周文の道を行った」と解釈し、其の里程を加えると、ちょうど一万二千里となる。

その結果、『魏志』の里程は[[不弥国]]で終わっていることがわかる。是は不弥国と邪馬台国が接しているからである。

== 筑紫朝廷論 ==
この邪馬台国は、やがて筑紫朝廷に発展したとするのが九州王朝説である。
=== 根拠 ===
次のことから、近畿天皇家は本来九州王朝の臣下であり、白村江の戦いの前後から次第に独立していったと考えられる。
*[[新唐書|中国正史]]によると、用明天皇は九州王朝のタリシホコの補佐官であったという。<ref>「歴史ビックバン」古田武彦『学士会会報』『新古代学』収録</ref>
*神武天皇は九州から東征した。
*「大倭」や「真人」といった名称を付ける天皇もいるが、これらは九州王朝の官職名であると考えられる。
また、次の王朝も九州王朝に服従していたと考えられる。
*東北王朝は『東日流六郡誌』によると、邪馬壹国に朝貢していた。
*吉備王朝も九州王朝に従っていた可能性が高い。
*讃岐王朝は九州王朝に滅ぼされ、その後、伊予王朝が成立した。
*四国南西部にも九州王朝に服従する王朝があり、倭国と環太平洋文明圏の入り口となった。
=== 海外王朝 ===
倭国の版図は海外にも広がっており、日本列島外の倭人も独自の王朝をきずいていた、とする。
==== 南米 ====
『魏志』に出てくる裸国・黒歯国は九州王朝の朝貢国である。<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/taiheiyo/mokujita.html 倭人も太平洋を渡った(C・L・ライリー他編)]</ref>其れは以下の理由による。
*エクアドルで発見された土器と九州及び関東の縄文土器が類似している。
*エクアドルには日本語で解明できる地名が少なくない。
*[[魏志]]や[[海の賦]]では、黒歯国が南米と思われる位置に記されている。<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic41.html 「海賦」と壁画古墳]</ref>
*古代海洋民族の航海技術は決して低いものではなく、例えばパラオあたりには今でも小さい船で気軽に国境を越えた航海をする人々が存在している。倭人は海洋民族であると考えられ、そのような航海のノウハウを知っていた可能性が高い。また、[[和田家文書]]に引用されている[[天皇記]]ではパラオ人が天孫族になったとしている。
==== 豪州 ====
オーストラリアの先住民である黒人は『梁書』に出てくる「海人」である。尚、『梁書』では倭人が海人を食用にしていたと記されているが、これは古代にも人種差別があった証拠である。中南米のオルメク文明には、黒人をかたどった彫刻があるが、これは倭人によって連れてこられた黒人であると考えられる。
==== 朝鮮 ====
朝鮮は九州王朝の朝貢国であった。それは以下の理由による。
*『山海経』によると、朝鮮南部は倭人が住んでいた。
*朝鮮人は倭国に王子を人質として出していた。
==== 南洋 ====
高天野原はパラオであった。その根拠は[[和田家文書 (和田喜八郎)|丑寅日本記]]に引用されている[[天皇記]]による。

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 関連項目 ==
*[[日本神話]]
*[[古事記]]
*[[日本書紀]]
*[[日本の神の一覧]]
*[[日本の仏教]]
*[[中世日本紀]]
*[[古史古伝]]
*[[日本の古墳一覧]]

== 書籍 ==
*[[古田武彦]] 『失われた日本』
*古田武彦 『失われた九州王朝』
*古田武彦 『多元的古代の成立』
*[[竹下義朗]] 『検定不合格!教科書になれなかった歴史』
*竹下義朗 『汝の敵・赤い支那を知れ!』

== 参考 ==
*安本美典 『古代九州王朝はなかった』
*安本美典 『虚妄(まぼろし)の九州王朝』
*原田実 『幻想の多元的古代 万世一系イデオロギーの超克』

{{Japanese-history-stub}}

{{DEFAULTSORT:たけんおうちようせつ}}
[[Category:日本の古代国家|*]]
[[Category:日本の歴史論争]]
[[Category:日本の歴史学]]
 

(無題)

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 9月24日(土)12時47分19秒
  日本書紀はなぜ事実といえるのですか? 投稿者:しげの  投稿日:2004年 9月27日(月)20時31分46秒
   <日本書紀の天皇在位を単純に足算した数字です。
そういう計算結果になるということです。
私個人の想像ではありません。
客観的史実を述べただけです。
御解りかと思いますが。

日本書紀に書かれてるのを事実であると、なぜあなたが解るのですか?
まちがいなく、日本書紀が真実であるということを証明してください。
実証なくば証明になりませんよ。ただ、書いてあるからだけでは小学生以下
ですよ。


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(無題) 投稿者:日野陽仁  投稿日:2004年 9月27日(月)22時46分47秒
    私にとって「古代史」=「実証的な謎解き」です。
 多くの人にとっても当然そうであるはずで、実際自分ではそうであると思っている人が大半だと思います。
 でも、多くの場合、どうしても思想を帯びてしまうんですね。戦後の「反天皇制史観」など、その典型です。自分だけの力ではどうにもできない悲惨な目に合うと、人はそれを何か大きな権威のせいにしたがるものです。悲惨な戦争の後遺症から立ち直るための戦後のイデオロギーの大転換で、「あの戦争で悲惨な目にあったのは天皇制のせいだ」と思いたい。しかしただそう思うだけでは不充分で、それを学問で客観的に証明したい。そこで標的に選ばれたのが古代史における天皇の権威です。
 九州王朝説も、最初は純粋に客観的な実証の帰結のはずだった。ところがそのうちに天皇制の起源である古代の近畿王権を「悪者であった」、あるいは「九州王朝という別の権威のしもべで、実は権威などなかった」ことにしたい、そういう主張に変わって来てしまったのです。
 こうなると、もはや客観的な学問ではなく、自分の憂さを晴らすために学問をダシに使っているとしか思えません。
 同じことは、戦後の左翼史観に疑問を持った「小林よしのり」的な、ネオ国粋主義的な主張です。これも左翼史観と同じ位ウサン臭いものです。
 もっと客観的にものを見る必要があります。
 記紀も中国史書も古文書です。そのような記述が「ある」ことは事実ですが、それが史実だったかどうかを調べることが学問の基本です。根拠なしに肯定したり否定したりするのはイデオロギーでしかない、少なくとも実証的な学問とは正反対の態度でしょう。


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水行十日、陸行一月と七千里 投稿者:日野陽仁  投稿日:2004年 9月28日(火)00時11分5秒
    Kawaさんの掲示板での宮津さんとKawaさんのやりとりを拝見しましたが、先行文献を重視するはずの古田氏は漢書西域伝の用例を軽視しているわけで、これは宮津さんの主張に分があると思います(私も自分の論文で同意見を主張しています)。Kawaさんの「漢書と倭人伝は違う」という主張は解釈で逃れようとしているようであまり説得力を感じませんでした。
 また韓国内陸行かどうかですが、これも狗邪韓国が端にあるかどうか不明だし、それに現実の地理がどうであれ、陳寿がどう考えていたかが基本であるのに、それが不明である以上、どちらという結論を出すことはできないと思います。陸行、水行どちらも可能でしょう。
 それはともかく、古田氏の博多湾岸説は、前漢鏡しか出土しない遺跡を弥生末期の墓だとするところで既に考古学的には論外です。
 もし邪馬台国が九州にあるとすれば、それは筑後平野か、それ以南でしかありえない。西新式が庄内式と同時期か否か、そしてその時代が邪馬台国の時代かどうか、そして卑弥呼が貰ったかがみは何か、これが焦点ですね。


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「史実」と「事実」 投稿者:巫女No.2  投稿日:2004年 9月28日(火)08時27分19秒
   >記紀も中国史書も古文書です。そのような記述が「ある」ことは事実ですが、それが史実だったかどうかを調べることが学問の基本です。根拠なしに肯定したり否定したりするのはイデオロギーでしかない、少なくとも実証的な学問とは正反対の態度でしょう。

私の語法として誤解をあたえてるようですが、
正史に書いてあるということは「史実」としてる訳で、
「事実」と断定してはおりません。
「史実」になってることが動かしようも無い事実になってしまってるとは主張してますが。。。

宮津さん
「史実」と「事実」とは語の意味が違うということです。
私は「事実」はわかりません。
「事実」は誰も見てきた訳ではありません。
私は推測を語らずに「史実」を語ってるだけです。


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あの~ 投稿者:巫女No.2  投稿日:2004年 9月28日(火)09時31分7秒
   >日本書紀に書かれてるのを事実であると、なぜあなたが解るのですか?
まちがいなく、日本書紀が真実であるということを証明してください。
実証なくば証明になりませんよ。ただ、書いてあるからだけでは小学生以下
ですよ。

だから「史実」を語ってるのです。
「事実」とはいっておりませんが。。。
私の投稿を良くお読み下さい。
私の言ってることが書紀に記載されてる「史実」であることはわかりますよね。

文献が信用出来ないとすれば、
事実解明は考古学的検証にたよることになるのでしょうけど。
絶対的な説とされるには、小学生でもわかるような根拠でなくてはならないと思います。
自分にしかわからないではまずいです。
編集済


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更に質問です 投稿者:しげの  投稿日:2004年 9月28日(火)11時08分52秒
   <だから「史実」を語ってるのです。
「事実」とはいっておりませんが。。。
私の投稿を良くお読み下さい。
私の言ってることが書紀に記載されてる「史実」であることはわかりますよね。

史実とは、歴史上の事実のことです。本当に書記が史実という証拠はなんですか?
神武が東征したとき、間違いなく書記どおりにしたのであれば、何か証拠となる物が
発掘されたとかそういうものはないのでしょうか?あとヤタガラスは、どう説明しますか?
もし、本当にいれば、現在もいるはずです。
私は、動物園好きでいろんな動物園へいきましたが、ヤタガラスなんていませんでしたよ。
見かけたのは、橿原神宮の交通安全のステッカーにヤタガラスが書いてある程度です。



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弥生の王の品物が出土 投稿者:児島  投稿日:2004年 9月28日(火)15時48分2秒
   巫女さん宮津さんこんにちわ、巫女さんにははじめまして、
まだ弥生中期~後期の実態が解決していないですね、久方ぶりにお目にかかり
ましたね、下にホームのアドレスいれていきますので、参考に見て下さいね。
事実も現実も当人が信用しなければ何にもならないでしょう、当社のホームは
そんな疑いのまなざしも気にせず、事実だけを紹介しております、見なくては
話の種にもならないのが鉄則ですね、見ても居ないものを見たように話すのは
これ多いですね、でも興味が事実だろうが、偽証だろうが感心がないと仰せの
方も此れ多いでしょう。知りたい人は、 何はともあれ暇があれ覗いてくださいね。
冒頭の題名に上げた夜須町しかないものが、古代中国夏王朝の天子の為の
必需品、鏡ばかりではない、これが鏡の前身の形見である、見れば判る。
http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html



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日本書紀の内容は真実か? 投稿者:しげの  投稿日:2004年 9月28日(火)16時01分39秒
   <日本書紀を見て下さい。
そこに神武即位の記録がありますか?無いですか?
この質問に御答え下さい。

記録はあります。

現実に記録があることを否定されるということ自体おかしいです。
なぜ、神武即位という記録があったとされる史実を現実に認めたくないのでしょうか?

まず、日本書紀の内容に信憑性がありません。内容が正しいのか正しくないか解らないのに
正しいと思っていらしゃるのはおかしいです。
それに神武が127歳まで生きたというのは常識的に考えておかしくないですか。
垂仁天皇は、140歳ですよ。
天皇は神様だからというのであれば、納得もしますが....
しかし、天皇を神と崇めて侵略戦争をした事実があります。
それを知っていて天皇が神様と主張するなら、あなたは右翼ですよ。




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日本書紀の内容は正しいか? 投稿者:しげの  投稿日:2004年 9月28日(火)16時21分42秒
   <日本書紀を見て下さい。
そこに神武即位の記録がありますか?無いですか?
この質問に御答え下さい。

記録はあります。

現実に記録があることを否定されるということ自体おかしいです。
なぜ、神武即位という記録があったとされる史実を現実に認めたくないのでしょうか?

日本書紀に信憑性がありません。書かれていることが正しいか正しくないか解らないのに
正しいと思っているのは偏見です。
それに神武は127歳まで生きたなんて常識的に考えられますか?
垂仁天皇は140歳ですよ。
天皇が神というならば納得もしますが....
かつて、日本は天皇を神とし、侵略戦争をおこした事実があります。
そのことを知っていて天皇を神というのであれば、あなたは右翼です。


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すいません 投稿者:しげの  投稿日:2004年 9月28日(火)16時24分13秒
   同じ内容のことを2回送信してしまいました。すいません。


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レス 投稿者:巫女No.2  投稿日:2004年 9月28日(火)18時10分14秒
   >日本書紀に信憑性がありません。書かれていることが正しいか正しくないか解らないのに
正しいと思っているのは偏見です。

だから史実が正しかったか正しくなかったかは
考古学的検証によるより他はないのかなといったのです。
私が、神武即位が正しいと断言しましたか?
神武即位、そういう記録があるといったのです。

ただし正しいと思うとはいったかもしれませんが、
それは人の勝手であって、他人の思想を強要できるものではありません。

>それに神武は127歳まで生きたなんて常識的に考えられますか?
垂仁天皇は140歳ですよ。
天皇が神というならば納得もしますが....

これはあくまでも記録(史実と同じ意味ですが、私の不徳のせいか誤解を招くようですので言い換えます)であって事実かどうかはわからないのです。

天皇は一般的には現人神とされてる訳ですが。。。

>かつて、日本は天皇を神とし、侵略戦争をおこした事実があります。
そのことを知っていて天皇を神というのであれば、あなたは右翼です。

明治維新後の陸軍の暴走は歴史の流れです。
ですが、彼等が列強からの侵略を押えてくれたから私達は生きていられるのです。

後は時が軍部の暴走を止めてくれるのを待つしかなかったわけです。
アメリカに負けるより仕方がありませんでした。
数年の被害はこうむってしまいましたが。

昭和天皇は2.26事件とポツダム宣言受諾に口を出したわけですが。

その後の繁栄は見ての通りです。
天皇に戦争責任をかぶせるのは卑怯だと思います。
美点を忘れての反骨精神も考えものではないでしょうか。

それとも、しげのさんは左なのですか?
編集済


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しげのさん 投稿者:巫女No.2  投稿日:2004年 9月28日(火)18時01分58秒
   >同じ内容のことを2回送信してしまいました。すいません。

このぺージの一番左下の管理者メニューをクリックしてみて下さい。
編集できますし、削除できます。

史実といえば
義経自殺、光秀戦死
これらも、日本での動かしようも無い史実とされております。

事実は義経は蝦夷に流れたり、
光秀は天海となって生きていたかもしれません。

それなりの説は存在してますよ。

考えてみました。

後の歴史を考えてみますと
義経自殺、光秀戦死
これらは例え嘘でも史実でなくてはならないのかなと思ってしまいました。
編集済


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天皇高齢の謎 投稿者:巫女No.2  投稿日:2004年 9月28日(火)17時23分10秒
   >それに神武は127歳まで生きたなんて常識的に考えられますか?
垂仁天皇は140歳ですよ。
天皇が神というならば納得もしますが....

推測ですが、
数人の天皇が合祀されてるのではないかと勘ぐってます。
実際はどのような記録であったのかわかりません。
それとも数人の記録が欠損してたのかな。。。


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(無題) 投稿者:しげの  投稿日:2004年 9月28日(火)19時09分51秒
   返答が曖昧になってきましたね。

<明治維新後の陸軍の暴走は歴史の流れです。
ですが、彼等が列強からの侵略を押えてくれたから私達は生きていられるのです。

だからと言って日本がアジア諸国を侵略したことは正当性はありません。

後は時が軍部の暴走を止めてくれるのを待つしかなかったわけです。
アメリカに負けるより仕方がありませんでした。
数年の被害はこうむってしまいましたが。

歴史に”もし”を語るのはタブーですが、中国(満州)、朝鮮、台湾、東アジアなど
全て、自国民に独立させて亜細亜連合でアメリカと戦っていたら歴史は変わった
かもしれませんよ。日本にアメリカが勝てたのは上陸舟艇とジープがあったから
と言われています。これらを、ゲリラ作戦で対抗し機動力を奪えば、亜細亜諸国は
勝てたかもしれません。

昭和天皇は2.26事件とポツダム宣言受諾に口を出したわけですが。

その後の繁栄は見ての通りです。
天皇に戦争責任をかぶせるのは卑怯だと思います。
美点を忘れての反骨精神も考えものではないでしょうか。

それとも、しげのさんは左なのですか?

天皇だけを全て責任があるかといえばウソになりますが、
日本兵は天皇のために命を捧げた事実があります。
この事実がある限り、戦争責任はまったくないともいえません。

私は左でなく民族主義の右よりの人間です。誰よりも負けないくらい国のことを考える
憂国烈士です。
ただし、日本の侵略戦争は事実であり動かしようのない事実です。
私は、事実のみを信じます。
ですから、日本書紀の書いてあることが事実なら神武即位も勿論信じます。
日本書紀の書いてあることが本当かどうか解らないのに信じてしまうのは、
歴史を語るというより宗教に近いですね。ここからは、思想の自由になりますから
これ以上私も干渉できません。



 

大変ですね

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 8月17日(水)11時21分51秒
  大変ですね、東日本大震災。無能な管、いつまで続けるつもりか。  

(無題)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 8月 8日(月)10時13分32秒
  『帝國電網省・歴史再考』(1997.3.8)参照。  

(無題)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 7月30日(土)12時23分52秒
  小沢氏「無責任な思いつきの受け狙いの人」
読売新聞7月30日(土)0時51分[.] 民主党の小沢一郎元代表は29日夜、堺市で開かれた同党衆院議員の会合で菅首相の発言について、「その場その場の無責任な思いつきを言って受けだけを狙う発言をする人がいて、民主党の人気を悪くしている」と批判した。

 首相が2013年の衆参同日選が望ましいとの考えを示したことについても、「『(衆院)解散する、する』と一生懸命ささやいて脅かしていたのに、最近は『2年後だ』と。どうして変わったのかわからない」と皮肉った。

 海江田経済産業相も同じ会合で「民主党は全員野球ができていない」と、首相の政権運営に不満を示した。
[.]
 

『魏志』倭人伝解釈(4)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 7月28日(木)10時28分19秒
  東南陸行、五百里、伊都國に到る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世に王有るも、皆女王國に統属す。郡の使の往来、常に駐まる所なり。
東南奴國(のこく 筑後平野)に至ること百里。官をジ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。
東行、不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余家有り。
南、投馬國(つまこく 薩摩?)に至ること、水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸なる可し。『魏志』

奴国と投馬国だけ「先行動詞」がない。他はすべて「先行動詞、あり」であることから、「傍線行程」と考えられる。

似た例は『漢書』にもある。そうすると、伊都国の東に不弥国があったこととなろう。また、投馬国は「日程」のため、実際に魏の使者が言ったか、疑わしい。恐らく、倭人からの伝聞だろう。

投馬国――本居宣長は南九州に比定しており、私もそれに従う。なぜ実際に行っていないのに記されているか、其れは戸数が多いからだろう。

 

『魏志』倭人伝解釈(3)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 7月28日(木)10時22分0秒
  又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。
一大國(壱岐)に至る。官を亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里なる可し。竹木叢林多く、三千許りの家有り。田地有り、田を耕せども猶食するに足らず、亦、南北に市糴す。
又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る。『魏志』

ここで三千里は進んだことになる。各島半周進んだ、と仮定すると四千四百里となる。どちらにしろ、対馬・壱岐の里程も含まれているので「約四千里」は進んでいる。

また、既に韓国までで七千里進んでいる。総里程は一万二千里。後「約二千里」だ。

ここで問題なのは、末盧國の位置である。『魏志』では具体的里程がないため、ここでは「音」を主な理由として、通説通り「松浦」とするが、そうではないとする説も九州説にはあるし、最近は近畿説にも出てきた。

 

『魏志』倭人伝解釈(2)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 7月28日(木)10時16分14秒
  郡従(よ)り倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍(たちま)ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。
始めて一海を度る、千余里、対海國(対馬)に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島、方四百余里なる可し。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。『魏志』

「郡従(よ)り倭に至る」は、漢文の構造上、実際に魏の使者が通った里程を記している、と考えるのが妥当らしい。

以下、里程であるため、「里程=郡使が通った道」として大きな間違いはないであろう。

ここで注目すべきは、第一に「狗邪(こや)韓國」が倭地であること、第二に魏の使者が対馬に上陸していることである。古田武彦のように対馬を半周したとする立場もあるが、このように「対馬内、里程」も計算に入れるべきである。

 

『魏志』倭人伝解釈(1)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 7月28日(木)10時09分24秒
  倭人(ゐじん、わじん)は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使譯通ずる所三十國。『魏志』

ここで注目すべきは、倭人が「海洋民族」と語られている点である。「山島に依りて國邑をなす」とは、海の島々や、朝鮮半島沿岸部などで「国」や「村」を作っているということ。

これが「天孫降臨」解釈などにつながるが、ここでは省略する。ともかく、「倭人=海洋民族」は重要なポイントである。そして、「中国人=陸地民族」という「相違点」に注目しながら『魏志』を読む必要がある。

また、ここから漢のころには百国以上あったというが、魏・晋の代に実際に朝貢してきたのは、たったの三十国と言うから、倭国でかつて内乱があったことを推測させる。とはいっても「内乱で国が減った」とは記されておらず、実際に三世紀に倭国が何国かはわからない、とするのが妥当だろう。ここに、『魏志』という海外史料の限界がある。

然し、そのような限界にも拘らず、その内容がきわめて正確であることを強調しておきたい。尚、『魏志』は基本的に現行写本(南宋本)が正確として引用する。
 

(無題)

 投稿者:中道保守  投稿日:2011年 4月24日(日)12時09分58秒
編集済
 

に「応永の外寇」に対する当時の李氏朝鮮の受け止め方についてですが、それを如実に表しているのが、「応永の外寇」の朝鮮側呼称です。朝鮮では時の干支(かんし)を取って「己亥東征(ギヘトンジョン;きがいとうせい)」と呼んでいますが、其処(そこ)には「東征」とある様に、明らかに「東(東南)への遠征」の意味が込められており、どう転んでも「防衛戦」の意図を読み取る事は出来ません。又、この「東征」を決めたのは、王位を世宗大王(セジョン-デワン 在位:1418~1450)に譲った後も政治の実権を握り続けていた先王・太宗(テジョン 在位:1400~1418)ですが、彼は当時、朝鮮半島沿岸を荒らし回っていた「倭寇(わこう)」討伐とは別に、



古書によれば対馬は慶尚道に隷属する



等と言う歴史的事実とは異なる主張を大義名分に掲げ、そして、侵略を実行に移しました。然し、対馬(往古(いにしえ)の「對馬國」)が『魏志倭人伝』(正確には『魏書』「東夷伝倭人条」と言う)の時代から、倭国(日本)を構成する一国だった事は明らかであり、「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」等と言う主張は正に「言いがかり」も良い所で、要は表向き倭寇討伐を名目に出兵し、あわよくば、対馬を占領し自国領に併合してしまおうと考えていたであろう事は火を見るよりも明らかな訳です。因みに、対馬への侵略は、同地の有力者が明国へと渡っている最中で、対馬の防衛体制が手薄だった時期を選んで行われましたが、これはその儘(まま)、韓国が日本の警備防衛体制の間隙を縫って竹島を襲撃、今に至る迄、占領し続けている事例と非常に良く似ています。(余談だが、韓国側が対馬を自国領とする根拠の一つは、なんと対馬を侵略した「応永の外寇」なのである。何とも呆れて物も言えない) この様に見てみると、「応永の外寇」は、正に文永の役・弘安の役に次ぐ、コリアによる3度目の対日侵略だった事が明白です。にも関わらず、それから凡そ170年後の「朝鮮征伐」(文禄・慶長の役の総称。当時の呼称は「唐入(からい)り」)を殊更(ことさら)取り上げて、日本の「朝鮮侵略」を糾弾するコリア側の態度は到底フェアとは言えません。言い方を変えれば、



先に侵略したのは貴国(コリア)の側ではないか?



共言える訳です。


 

(無題)

 投稿者:中道保守  投稿日:2011年 4月14日(木)17時52分51秒
  帝國電網省  

国家有事なり

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)17時45分41秒
  もうすでに我が国は有事の状態となっております。然し、管理者・川村明氏との連絡はとれません。従って、臨時に私がこの掲示板の司会役をすることとします。  

「九州王朝の風土記」①――古田武彦多元王朝説解説

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月31日(金)16時43分51秒
  【これは『甦る九州王朝』の一部を引用したものです】
これまでは、中国史料の分析だった。中国の史書にしるされた倭国の記事を理解する上で、従来のような近畿天皇家一元主義の立場から見たのではあまりにも矛盾がある。こじつけが多すぎる。これに対して九州王朝という一個の仮説を立てたとき、それらの矛盾は解消する。人間の理性に納得できる形で、三~七世紀の中国史料が理解できる。それがわたしの基本の立場だった。
 今度は日本側の史料だ。日本列島の中で産出された史料についても同じことがいえる。これを近畿天皇家一元主義の目で見たのでは、解きがたい幾多の矛盾がある。どうしてもこじつけになってしまう。
 ところがこれに反し、九州王朝という新視点を立てるとき、それらは何の不思議でもなくなってしまう。その事実を次にしめしてみたい。それが「二つの九州風土記」問題である。
    ※
 風土記には、少なくとも二種類ある。これは井上通泰氏以来、風土記研究史上、著名のテーマだった(井上『肥前風土記新考』『豊後風土記新考』『西海道風土記逸文新考』等)。甲類・乙類、その他の第三類、という区別を立て、これらはそれぞれ「霊亀れいき元年(七一五)より養老ようろう四年(七二〇)までの間の撰 ーー甲類」「日本紀奏上(七二〇)以後、漢風諡号(おくりな)制定(およそ孝謙こうけん天皇の御代〈七四九~七五八〉)以前の撰 ーー乙類」「漢風論を用ゐ、且つ平安時代に入ってからの撰 ーーその他の第三類」という成立であろうとされた。
 これに対して批判されたのが坂本太郎氏である。「九州風土記補考」(『大化改新の研究』所収)の中で、氏らしい穏健・周密の吟味を右の井上説に対して加えられ、右の第三類は第一類(甲類)の一部と見なすべきであり、その第一類と第二類(乙類)の時代順は、井上氏の立てられたのとは逆であり、第二類が先、第一類が後である、とされた。そして第二類は「第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係るもの」とし、第一類は「天平てんぴょう四年(七三二)より天平宝字ほうじ三年(七五九)に至る間」の成立、とされたのである。
 この坂本氏の先後判定自体は、その後の研究者にほぼうけ入れられたようである。近年この問題に対して積極的な論稿を次々に提起された田中卓氏も、この坂本氏の先後判定については疑っておられない(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」「肥前風土記の成立 ーー 九州風土記(甲類)撰述の一考察」『日本古典の研究』所収)。ただそれぞれの時期について、乙類を「天平四年(七三二)以降、恐らくは天平宝字年間(七五七~七六五)」と推定し、甲類を「延喜えんぎ十八年(九一八)以後、天慶てんぎょう六年(九四三)以前」と推定された。
 また岩波古典文学大系本の『風土記』の校訂を行われた秋本吉郎氏にも、幾多の風土記研究の論文がある(古典文学大系本の解題参照)。
 けれども、このような研究史の詳細に立ち入るのは、今の目的ではない。また右の各論文中に提出された個々の論点については、学術論文をもって再吟味させていただく機会があるであろう。
 今はこの問題に対して、従来ほとんど関心のなかったと思われる一般の読者の面前でズバリ問題の本質に切りこんでゆこう。それによってこの問題の、研究史上の渋滞の理由、その根源をしめすことができるであろうから。
    ※
 風土記の場合、『古事記』『日本書紀』のように完形は残されていない。まとまった形でかなりまとまった量残されているのは、『常陸国風土記』『出雲国風土記』『播磨国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』の五つの風土記であり、他は残欠の形で諸国にわたって遺存している。これはたとえば右の古典大系本の目次をくってみても、一目瞭然(りようぜん)である。
 ところで、「二種類の風土記」といった、その二種類を一番端的にしめすのは、“行政単位”だ。通常全国の風土記は「郡」が基本単位となって書かれている。
 「意宇の郡(こおり)。郷(さと)は一十一。里(こざと)は、卅三、余戸(あまるべ)は一、駅家(うまや)は三、神戸(かむべ)は三、里は六、なり」(『出雲国風土記』意宇郡)
といった風に。そして九州にもまた同じく、「郡」を基本単位とする書式で書かれている、一連の風土記がある。
 「日田の郡 。郷は五所、里は一十四、駅は一所なり」(『筑後国風土記』日田郡)
といった風に。ここまでは何の不思議もない。
 不思議なのはその次だ。九州に限って、これとは異なった「県」を基本単位とする一群の風土記が別に見出されるのである。
 この状況を一番ハッキリ対照的にしめす例をあげよう。
A型(従来説の乙類、第二類)
 「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の県(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長(なが)さ一尺二寸、周(めぐ)り一尺八寸、一は長さ一尺一寸、周り一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、円(まろ)きこと磨き成せるが如(ごと)し。・・・・」(『釈日本紀しゃくにほんぎ』巻十一)
[革更](かた)は、JIS第3水準ユニコード9795

B型(従来説の甲類・第一類)
 「筑前の国の風土記に曰わく、怡土(いと)の郡。児饗野(こふの)郡の西にあり。此(こ)の野の西に白き石二顆(ふたつ)あり。一顆(ひとつ)は長さ一尺二寸、大きさ一尺、重さ卅一斤、一顆は長さ一尺一寸、大きさ一尺、重さ卅九斤なり。・・・・」(同右)

 ここではほぼ同内容だ。にもかかわらず、「県」と「郡」、基本の行政単位が異なっている。そして何よりこれだけ“ほぼ同内容の説話”が別の型式で書かれている、という、この事実ほど、「九州にだけは、二種類の風土記が存在した」という、この事実を雄弁に立証するものはあるまい。井上通泰氏の指摘以来、問題の所在自体が疑われなかった、その根本は、このような史料事実にある。だからこの二種類の風土記の呼び方について、一番端的な呼び方は、「県あがた風土記」と「郡こおり風土記」である。そして簡明に、前者をA型、後者をB型と、わたしは呼びたいと思う(井上氏の甲・乙・第三類、坂本氏の第一・第二類、の命名に敢えて異をとなえるのは、“乙類、すなわち、第二類が先”と見なされている現在、その時代順に沿った命名が、問題の的確な解明の上で便宜であると共に、必要だからである)。
 従って諸国の風土記を通視すれば、九州をふくめて全国にわたって存在するのは、「郡風土記」つまりB型である。これに対して九州にのみ、これと異なる型式の風土記が、右のB型の成立に先んじて成立していた。これが「県風土記」つまりA型であった。 ーー以上が、巨視的に見たさいの風土記という名の史料の時間的・空間的分布なのである。
 ではなぜ、このような異型の分布が実在するのであろうか。これが問いの発端だ。
    ※
 ここで明瞭(めいりょう)な事実がある。それは有名な、風土記撰進の詔との対比だ。
「(和銅わどう六年、七一三)五月甲子。□制 畿内七道、諸国の郡・郷の名、好字を著(つ)けよ。其の郡内に生ずる所の銀・銅・彩色草木・禽獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目(しきもく)を録せしむ。及び土地の沃藉(よくせき)・山川原野の名号の由(よ)る所、又古老の相伝・旧聞の異事は、史籍に載(の)せ、(亦宜またよろしく)言上すべし」(『続日本紀』元明げんめい天皇)

 ここには「郡」という字が、二回も明確に出てきている。従ってこの詔にもとづいて作られたもの、それが先の全国にまたがる「郡風土記」つまりB型であることは、疑うことができない。もちろん、各地で実際に成立するまでには、多くの時間がかかり、その成立時点も、各国でまちまちだったようである。たとえば、それから二百年あまりもたった延長(えんちょう)三年(九二五)、風土記勘進の符が出されている。
「(延長三年十二月十四日)太政官符だじょうかんぷ、五畿内七道諸国司。
  応(まさ)に早速、風土記を勘進すべき事。
  右、聞(ぶん)する如く、諸国、風土記の文有る可(べ)し。今、左大臣の宣を被(こうむ)りて稱*(い)う。宜しく国宰を仰ぎ、之を勘進せ令(し)むべし。若(も)し国底に無くば、部内を探求し、古老に尋問し、早速言上する者。諸国承知し、宣に依りて之を行い、延廻(えんかい)するを得ざれ。符到らば、奉行(ぶぎょう)せよ」(『類聚符宣抄るいじゅうふせんしょう』醍醐だいご天皇)
稱*の別字。禾偏のかわりに人偏。IS第3水準ユニコード5041

 もって和銅六年の詔をもって、必ずしも直ちに各国でそれぞれの風土記成立、厳重保管、などとはいかなかった、その実状況が知られるであろう。けれどもそれはともあれ、“B型は和銅六年の詔をもとにして成立した”。この結論は、いかにしても疑えないのである。
    ※
 では、それに先立つくA型はどうか。
 今使った「先立つ」という言葉に対して先ず再確認をしておこう。かつて井上氏は“A型はB型のあと”と見なされた。けれども右のように“和銅六年の詔によっていったんB型の風土記を、九州においても、全国並みに立派に作っておきながら、その後、九州においてのみ、現実に存在せぬ(現実は当然「郡」)「県」なる、架空の行政単位をもった風土記を改めて作り直す”。こんな状況は、考えてみるさえ、ナンセンス、そういって異論はあるまい。従って“A型が先、B型が後”という坂本氏の時代順判定が基本的に反論を見ぬことは当然である。
 だから“B型に先立って、九州にのみ、A型の風土記先在の事実”を認めることとならざるをえないのだが、“では、なぜ” ーーこの必然の問いに対しては、従来の各論者とも、にわかにいずれも“歯切れの悪い”答えしか用意できなかった。たとえば坂本氏。
「ここに本書(第二類をさす ーー古田)の撰修は明かに第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係(か)くるも大なる誤謬(ごびゅう)はあるまいと信ずる。
 只(ただ)第二類が第一類に比し文章の全体に於(お)いて支那(しな)風の文飾の多いことはこの考察に稍(やや)そぐはぬ感もしないではない。しかしそれは他の事情によつて解釈できるのであつて、むしろそこに二様の風土記の存在を説明すべき理由すら含まれてゐるのではないかと思ふ。まづ第二類に文飾の多きは撰者が文筆に長(け)たる人であつた故であらう。多少時代が古くとも、有能な官吏を擁した大宰府(だざいふ)にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ。彼は恐らく外客に接する大宰府の地位を自覚したが故に、風土記撰進の詔に従つて直に筆を揮(ふる)ひこの風土記(第二類をさす ーー古田)をものしたのではあるまいか。かくて筑紫風土記は奏進され、諸国のもの(第一類をさす  ー古田)と並べられたが、その稍異例な体裁が眼立つた為(ため)に後の大宰府官人の何人かゞこれを基にして今一度風土記の撰修(第一類をさす ーー古田)を企て、そこに諸国風土記の粋を取り、自己に理想の形式を盛つたのであらう。・・・・かくてともあれ、この類の風土記も奏進せられ、九州地方の風土記は二種となつた」(「九州地方風土記補考」)次に田中卓氏。
「九州地方についてみても、筑前国・豊前国の大宝(たいほう)二年の戸籍はすべて郡によつて記されている。大宝二年と云(い)へば風土記撰上の詔の発せられた和銅六年より十一年以前である。もし風土記が坂本博士の云はれるやうに『和銅に近き頃ころ奏上』せられたとすれば、いかなる理由で殊更に当時慣用の郡を廃して、少くとも大化(たいか)以前の古制を思はしめる県を採用したのであらうか。まして風土記撰上の詔には、『畿内七道諸国郡郷名著二好字一。其郡内所レ生、云々うんぬん』とあるにおいてをやである。凡(およ)そ風土記の記載は現行の行政に役立つものでなくては意味をなさない。従つて地方区画に百年前の古制を採用する必要は毫(ごう)も存しないし、また事実他の風土記にあつては悉(ことごと)く郡によつて統一せられてゐる。さすれば乙類にみえる県は、日本紀に『コホリ』と訓ぜられ、或(あるい)は『アガタ』と読まれた古制のそれではなく、撰者の漢風好みより、支那の郡県制度を習つて文飾のために郡に代ふるに県を以(もつ)てしたものと考へねばならない。すなはちその県は当時における現代的な、いな最新式な用話として、充分に風土記の目的を果し得たものと思はれる」(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」)

 これは要するところ、ズバリいってしまえば、“なぜか太宰府にだけ、気まぐれな官人がいて、現実には架空の「県」という行政単位を使って、A型風土記を作ってみた”ということだ。これでは、「答え」自身が恣意(しい)的、いかにも“気まぐれ”の観をぬぐえない、そういったら、これらの業績に満ちた論者に対して失礼であろうか。しかし、“気まぐれ”な答えしか、用意できなかったのは、必ずしも“これらの論者”だけのせいではない。従来の誰人(たれびと)も、これに対して“気ままならぬ答え”を出しえなかった。これが、ことの真相なのである。なぜなら、
 第一、近畿天皇家から、右の和銅六年に先立ち、この「県風土記」を作れ、という命の下された形跡がない(ことに戦後史学の認める史料による限り ーー後述)。
 第二、たとえかりに、近畿天皇家からその種の命が出されていたとしても、九州以外の諸国がすべてこれに従わず、九州のみがこれに従った、というのは不可解である。
 第三、しかも九州で先立って行われたA型風土記の撰進に対し、後年、(その最初は和銅六年)近畿天皇家がこれ(風土記撰進)にならった、つまり模倣した形に実質上なっているのも、その九州のA型撰述の官人が近畿天皇家の「配下」であったとするなら、不可解である。
 第三、また坂本氏のように、「和銅六年」の「郡風土記」作製の詔に応じて作りながら、九州だけA型、他の諸地方ははじめからB型を作った、とするのも奇異である(九州官人不注意説となろう)。
 第四、また近畿天皇家は和銅六年の風土記撰進のさい、歴史上の事実においてはそれが“九州のA型風土記作製の模倣”であるにもかかわらず、右の詔ではそのことに一切触れていない。このようなケースもまた不可解である。

 以上のように、あちら立ててもこちらは立たずの、八方ふさがりのていだ。従ってこの問題の研究史が渋滞したまま進展を見なかったのも、決して偶然ではなかったことが知られよう。このことは次の一点を指示する。少なくとも従来の旧説派の見地、すなわち“日本列島において風土記撰進などの挙をなしうる公的権力者は近畿天皇家のみ”という近畿天皇家一元主義の視野からは、ひっきょう解決不可能、矛盾の壁は抜きがたい。 ーーこれが研究史上の偽りえぬ現況だったのである。

 この未解決の矛盾に対して、わたしがどのようなイメージをいだきつづけてきたか、それはもはや隠すべくもあるまい。“A型の風土記とは、九州王朝で作られた風土記ではないか”。この疑いである。
 “八世紀以降の近畿天皇家に先在した三~七世紀の九州王朝”という、わたしが第二書『失われた九州王朝』以来、提唱しつづけてきたテーマからすれば、それはいわば“必然のアイデア”といってもいいであろう。けれどもそれだけに、いいかえれば“うますぎる”話だけに、わたしには“慎重にならねばならぬ”。そういう思いが濃かった。だから“口に出す”ことを、いわばみずからに抑制してきていたのである。
 ところが昨年初頭、この問題の再検証を試みはじめると、新たな視野が急激に開けてくるのを見た。そのポイントは、A型における阿蘇(あそ)山の描写である。

「筑紫の風土記に曰(いわ)く、肥後の国閼宗(あそ)の県。県の坤(ひつじさる)、廿余里に一禿山有り。閼宗岳と曰(い)う。・・・(中略)・・・其の岳の勢為(た)るや、中天(注)にして傑峙(けつじ)し、四県を包みて基を開く。石に触れ雲に典し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(ひた)して水を分つ、寔(まこと)に群川の巨源。大徳魏々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下の無双。地心に居在す。故に中(なか)岳と曰う。所謂(いわゆる)閼宗神宮、是なり」(『釈日本紀』巻十、肥後国)
 (注)底本には「中天而傑峙」とあるところを、岩波古典文学大系本(五一八ぺージ)では「中二半天一而傑峙」と改定している(井上氏の『新考』の補字による)。今は、原形(底本)によった。

 となっている。「中天」は“天のまんなか、おほぞら、なかぞら”(諸橋『大漢和辞典』)、「地心」は“地球の中心”(同右)の意だから、ここでいっていることは、次のようだ。 ーー“阿蘇山は天地の中央である”と。

 この表明の立場は、B型の風土記とは明白に異なっている。
「筑前の国の風土記に曰く、怡土の郡。児饗野(こふの)郡の西にあり。・・・・(中略)・・・・『(気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)朕(あれ)、西の堺を定めんと欲し、此の野に来著(きつ)きぬ。・・・・』・・・・」
 右のように糸島(いとしま)郡の野原は“西の堺(さかい)にあり”という形でとらえられている。これは、いうまでもなく“近畿を原点にした”表記だ。だが、もしこれと同じ発想、同じ表記形式であるならば、当然ながら阿蘇山もまた「西の堺」であり、“天地の中央”などとは、到底なりえないのである。後者は明らかに“九州を原点とする”表記であり、前者のような“近畿原点”の表記とは、立場の根本において、その“原点のおき方”が異なっているのである。すなわち、
 A型は九州を原点とし、
 B型は近畿を原点とする。
 そのちがいが歴然としているのである。
    ※
 次の問題は、行政区劃の問題だ。
 「筑紫の風土記曰く、逸覩(いと)の県。・・・・」
 「筑紫の風土記に曰く、肥後の国、閼宗の県」
といった風に、「筑前」と「肥後」とが共通して「筑紫風土記に曰く」の句が冠せられているのが注目される(他のA型の例に対しても、岩波古典文学大系本は「現伝本と別種の風土記に属するもの」に「筑紫風土記」と記している)。すなわち「A型風土記」とは、本来「筑紫風土記」なのである。
 ところが、B型風土記の場合は、これとは異なる。「肥後」の場合は「肥後の国の風土記」(玉名たまな郡)、「豊前」の場合は「豊前の国の風土記」(田河たがわ郡)という、通常の形のみだ。つまり全国のB型風土記と共通の形だ。近畿天皇一家のもとの各国別の風土記なのである。何の他奇もない。
 ところが、A型の場合、本来“筑紫を原点として九州全土を包括する”形の様式をとっていたようである。これはなぜか。太宰府の機能が和銅六年以前のある時点とその以後で“激変”したのだろうか。そのような徴候は別に見出せない、少なくとも“近畿天皇家統治下”である限り。そのような“激変”があるなら、近畿天皇家の史書たる記・紀や『続日本紀』にその記事が姿を見せぬはずはない。第一、“筑紫を原点として九州全土を包括”などというのは、“地方の一中心官庁”のなしうるところではない。もし“なしうる”という論者があれば、“九州以外の、どこの地方の中心官庁も、そのような風土記を作ってはいないではないか”と、ひとたび反論すれば足りよう。“吉備(きび)風土記の名で播磨や出雲や備後(びんご)の風土記が書かれた”とか、“大和(やまと)風土記の名で河内(かわち)や摂津(せっつ)の風土記が書かれた”などという話は一切聞いたことがない。またその史料事実もない。
 ということは、先入見に毒されざる限り、平明な答えは一つだけだ。すなわち“A型風土記は筑紫なる王朝のもとに作られた風土記である” ーーこの答えである。

 「県風土記」に関する、核心をなすテーマはすでに提示された。だが、なお残された肝要のテーマがある。それは“九州王朝では「県」という行政単位が一般に用いられていたか”という基本の問いである。この問いに対して幸いにも、わたしは明白な答えを与えることができる。それは他でもない。第二書『失われた九州王朝』、第三書『盗まれた神話』においてわたしの使用した方法、そしてそれによってえられた帰結によってである。

〔その一〕
 『日本書紀』の景行(けいこう)紀に、「景行天皇の九州大遠征」の説話がある。周芳(すほう)の娑麼*(さば)にはじまり、九州東北部の豊前の京(みやこ)に渡ったのち、九州の東岸部と南岸部を「征伐」してまわった、という説話である。後半は凱旋行路。日向(ひゅうが)にひきかえして、そこから肥後南端部に至り、九州西岸部周辺を北上して筑後の浮羽(うきは)を最終地点としている。この説話は“近畿なる景行天皇の説話”として見てみると、矛盾があまりにも多い。たとえば、
 (1) 九州東岸・南岸部が“すでに平定された領域”であり、西岸部が未平定の領域、つまり征伐の対象地、というのなら、東方なる近畿を原点とした場合、理解しやすい。ところが、その逆である、というのは、不自然だ。
 (2) 筑前は“もっとも早くから平定されていた”領域であるはずなのに、ここに立ち寄った形跡が全くない。南から北上してきて、“浮羽止まり”は不自然だ。「筑前の空白」問題である。
 (3) 最終地浮羽から、近畿へ向うべき寄港地たる、日向までの間の記載が全くない。
  (付言する。ここは“『日本書紀』の書式とその史料性格”を分析し、論じているのであるから、B型の『豊後国風土記』日田郡の“景行天皇に関する”記事などをもって“補い解する”という手法は不当である。むしろ右の記事は“書紀の欠を補う”形で“景行天皇の名前に寄托(きたく)された伝承”がここに編入されたものと考えられる。この点、坂田隆氏「『盗まれた神話』批判ー古田武彦氏に問う」〈「鷹陵史学」昭利五十六年三月〉の論点に関係する。詳細は別稿にゆずりたい)
 (4) 史料批判上、もっとも重要なのは次の点だ。それは“この説話が『古事記』に全くない”という一言である。
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD



 この記・紀間の記小の異同に対する、わたしの判断の基準 ーーそれは次のようである。“近畿天皇家の史官が原史料に加削を行うさい、それは天皇家に有利に加削するのであって、不利に加削することはありえない” ーーこれか率直な公理である。そしてその“有利・不利”とは、普通の人間の普通の目から見たそれであって、“もってまわったりくつから見た、一部のインテリ好み”などのそれではないのである。
 このような公理から見ると、この記事について記・紀間の先後関係は明白であろう。なぜなら、もし書紀の方が原形であったとしたら、あれほど赫々(かくかく)たる天皇の大親征成功譚(せいこうたん)を、後代の天皇家の史官たちがバッサリ削る、などということは考えられない。これに対して逆ならありうる。この「九州東・南部平定譚」を他からもってきて、あたかも近畿の天皇の大功勲であるかのように、ここに加えた。 ーーこの帰結である。
 従来の論者には考えがたいところであろうけれども、わたしにはそのように結論する他はなかった。
 では、どこからもってきたか。それは説話自身が物語っている。筑前を原点とする九州、東・南部平定譚の史料性格をもつ(そのさい、肥後はすでに筑紫の勢力下にあったものと思われる)。この仮説に立つとき、先ほどの不審はことごとく解ける。
 (1) 近畿原点の場合と異なり、“九州西部(肥後)がすでに領域内であり、東・南部が未平定”ということは、地理上きわめて自然である。
 (2) 「筑前の空白」は当然である。そこは出発の原点であり、筑後の浮羽のあと、都なる筑前へと帰着したのである。
 (3) 従って最終地浮羽から日向までの記載の絶えている不思議も、当然解消する。
 (4) 『古事記』にないことも、それが本来の形(原形)であるから、当然である。

 すなわち“この説話は筑前の王者(「前つ君」)による九州一円平定譚であり、いいかえれば、九州王朝の発展史である。それを九州王朝の史書(「日本旧記」)から切り取ってきて、あたかも「景行天皇の業績」であるかのように接(つ)ぎ木した、のである”。
 以上が『盗まれた神話』においてのべたところのポイントだ。そしてそれはわたしの古代史学にとっての根本の方法をしめすものであった。
    ※    ※

 右をここで再説したのは、他でもない。この「景行の九州大遠征」に頻出する地名、それが「県」なのである。記・紀を通じて“「県」の最頻出地帯”それが、他ならぬこの史料なのだ。書紀における「景行紀」以前の「県」を左にあげてみよう。
 〈近畿〉 八か所
    菟田(うだ 神武紀じんむき)・菟田下(うだのしも 神武紀)・猛田(たけだ 神武紀)・層富(そほ 神武紀)・春日(かすが 綏靖紀すいぜいき)・磯城(しき 綏靖紀・安寧紀・懿徳紀・孝昭紀・孝安紀・孝元紀)・十市(とおち 孝安紀) ーー大和
    茅淳(ちぬ 崇神紀すじんき) ーー河内

 〈九州〉 九か所
    水沼(みぬま 景行紀)・八女(やめ 景行紀) ーー筑紫
    長峡(ながお 景行紀)・直入(なおいり 景行紀) ーー豊
    高来(たかく 景行紀)・八代(やつしろ 景行紀)・熊(くま 景行紀) ーー火
     諸(もろ 景行紀)・子湯(こゆ 景行紀) ーー日向

 右のように、近畿の他は、それ以上に九州に集中し、それが右の「景行の大遠征」、実は「前つ君の九州一円平定譚」をしめす史料に集中して現われているのである(これを近畿天皇家「治下」の「県」と考えるには、東〈東海以東〉になく、西も、九州との中間〈中国地方等〉が欠けている〈あるいは乏とぼしい〉点から困難であろう)。
 これに対し、この史料が九州王朝の史書「日本旧記」からの「盗用」であるとすると、その史書では、「県」という行政単位が広く用いられていたこととなろう。すなわちこの「県」は九州王朝の行政単位なのである。

〔その二〕
 もう一つの「盗用」の説話、「神功じんぐう皇后の筑後征伐譚」でも、同一の傾向が見られる。先ず、問題点は左のようだ。
 (1) 仲哀(ちゅうあい)の死と新羅(しらぎ)行の間に、書紀では神功の筑後征伐譚がある。有名な羽白熊鷲(はしろくまわし)や田油津媛(たぶらつひめ)討伐の説話である。
 (2) しかし、仲哀の死(おそらく賊の矢に当ったことが原因となった死、すなわち敗戦下の死)後、という形成不利のとき、いきなり“神功が筑後平定に成功した”というのは、あまりにも唐突である。
 (3) この印象的な「筑後征伐成功譚」が、またしても『古事記』には全くない。

 従ってこれも先と同じ公理に従う限り、“ない方の『古事記』の方が本来の形(原形)、ある方の書紀の方が改作形”と見なす他はない。すなわち“筑前を原点とした筑紫一円平定”である。それは「橿田宮かしひのみや の女王」にかかる説話と見なされる(『盗まれた神話』参照)。
 これは九州王朝の原域たる「筑紫一円平定譚」という、九州王朝発展史の中でも、もっとも原初的な段階の説話だったのである(当然、先の「前つ君の九州再平定譚」より前段階)。ところがここでも、
  伊覩(いと 神功紀)・山門(やまと 神功紀)・松浦(まつら 神功紀) ーー筑紫
といった「県」地名が出現し、右の「前つ君の九州一円平定譚」と同一の史料性格をしめしている(「沙麼*さば」周防すおう、も)。
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD

〔その三〕
 同じく、仲哀の九州遠征説話をめぐっても、
 儺(な 仲哀紀)、伊覩(いと 仲哀紀)、崗(おか 仲哀紀) ーー筑紫
という風に「県」名が連続している。しかもいずれも九州内においてである(この「県」出現部分の記事も、「日本旧記」などからの「盗用」と見られる)。
 以上を一言でいえは、“他の史料(九州領域)”から接ぎ木された部分 ーーまさにそこに「県」記事が氾濫しているのだ。この史料事実は、一体何をしめすだろう。他ではない。わたしたちはここに“九州においては古くから「県」の制度が実在していた”その痕跡を認めざるをえないのである。なぜならもしこれらが「後代の六~八世紀の近畿の史官による造作」であったとした場合、“九州にだけ、くりかえし、まきかえし、「県」という行政単位を造作した”というような解釈に陥らざるをえない。そんな想定は、誰が考えても、およそナンセンスという他、何物でもないであろうから。
 さにあらず、この「県」地名群は、他ならぬ「九州王朝の行政単位」そのものの痕跡、その史料(断片)上の反映なのであった。

 「九川王朝の行政単位としての『県』」 ーーこのような新概念に人はとまどうであろう。何しろ、九州王朝そのものさえ、学界はもとよりいかなる教科書も、認知のかけらさえしめしていない現在なのであるから。
 けれども、人間の平明な理性に従うとき、それは決して奇異な事態ではない、むしろ必然なのである。なぜなら「県」とは、当然ながら本来中国の行政単位である。周知の経緯を略述しよう。
 先ず周(しゅう)の封建制。斉せい・趙ちょう・魯ろ・燕えん・楚そ、といった国々が並立し、中心に周王朝があった。あの蘇秦(そしん)、張儀(ちようぎ)等の合従連衡(がつしようれんこう)の術策も、このような各「国」の間に生れたエピソードだったのである。
 次に秦(しん)の郡県制。「県」が誕生した。かつての「国」は「郡」に代り、中央から派遣された官僚が支配した。そしてその下部単位として「県」がおかれたのである。
 次が漢(かん)の郡国制。これは全国を「国」と「郡」の折衷型とし、「国」では漢の高祖の一族や功臣が「王」となり、「郡」では、秦代のように中央からの派遣官僚が統治した。そして右のいずれにおいても、下部単位は「県」だったのである。たとえば、
  「山陽さんよう郡(故、梁。景帝中六年、別れて山陽国為(た)り。武帝の建元(けんげん)五年、別れて郡為り。莽(もう)、鉦野(きょや)と曰(い)う。[亠/兌](えん)州に属す)・・・・県二十三」(『漢書』地理志上)
[亠/兌](えん)は、亠の下に兌。JIS第3水準ユニコード5157

  「楚国(高こう帝置く。宣せん帝の地節(ちせつ)元年、更に彭城(ほうじょう)郡為り。黄竜(こうりょう)元年、故(もと)に復す。莽、和楽(わらく)と曰う、徐州に属す)・・・・県七」(『漢書』地理志下)

 われわれにおなじみの楽浪(らくろう)郡・帯方(たいほう)郡なども、その「郡」の一つだったのである。この制度は魏、西晋へとうけつがれた。『三国志』の各列伝の冒頭に、
 「李典(りてん)、字は曼成(まんせい)、山陽・鉦野(きょや)の人なり」(『魏志』巻十八)

といった風の形で書かれているのは、山陽郡鉦野県の出身であることをしめす。また『魏志』の彭城王拠(きょ)伝に「国・郡・県」をめぐる興味深い詔がのせられている。
 「(黄初五年、二二四、文ぶん帝)詔して曰(い)わく『先王、国を建て、時に随(したが)って制す。漢祖、秦の置く所の、郡を増す。光武(こうぶ)に至り、天下損耗(そんこう)せしを以(もつ)て、并(あわ)せて郡県を省く。今を以て之に比すれば、益ゝ(ますます)及ばず。其(そ)れ、諸王を改封して、皆県王と為す』
 拠、定陶(ていとう)県に改封せらる。太和(たいわ)六年(二三二)諸王を改封し、皆郡を以て国と為す。拠、復(また)、彰城に封ぜらる。景初(けいしょ)元年(二三七)、拠、私(ひそか)に人を遣わして中尚方(ちゅうしょうほう)に詣(いた)り、禁物を作るに坐(ざ)し、県二千戸を削らる。」(『魏志』巻二十)

 制度改変の錯綜(さくそう)した記事の間に「郡 ー 県」「国 ー 県」制の存在が明瞭にうかがわれよう。また『宋書』州郡志には、
 「益(えき)州刺史、漢の武帝、梁(りょう)州を分けて立つ、治する所、別に梁州を見る。郡二十九、県一百二十八を領す。
  蜀(しょく)郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康(たいこう)中、改めて成都(せいと)国と曰う。後、旧に復す。県五を領す」(『宋書』州郡志四)

とあり、州のもとに「郡・国・県」の存在する状況がうかがえる。さらに『隋書』地理志では、
「天監(てんかん)十年(五一一、梁武帝)、州二十三・郡三百五十・県千二十二有り。(中略)
 高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開皇(かいこう)三年(五八三)、遂(つい)に諸郡を廃す。・・・州県を析置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。・・・既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めて郡と為す。・・・・大凡(おおよそ)郡一百九十、県一千二百五十五」(『隋書』地理志上)

 とあるように、変改の中にも、“州もしくは郡のもとに県”という制度は代々うけつがれていたようである。
 さて以上のように、中国の「県」制は連綿と連続していた。その長年代の間、臣属・国交をつづけてきた倭国(わこく)側はこの影響をうけないままにきたのであろうか。いいかえれば、この制度だけは敢(あ)えて“とり入れず”に拒否してきたのであろうか。
 先ず『三国志』の倭人伝について考えてみよう。
 「古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣るや、皆自ら大夫と称す」
 倭国は周代の「卿けい・大夫たいふ・士し」の制度をうけ入れ、その名によって貢献していた。「大夫」とは、当然周代の「国」のもとにおける制度である。さすれば、“「大夫」を名乗った”ということは、“周の天子のもとにおける「国」”の位置に、みずからの倭国をおいていた、ということの表現であろう(ここで「古」という言葉は「周以前」を意味する。『邪馬一国への道標』参照)。
 次いで志賀(しかの)島の金印。この「漢委奴国王印」の「国」とは、当然漢の「郡国制」下の「国」を意味する概念である。少なくとも、中国本土内において、その「国」の下には「県」の存したこと、前述のごとくである。
 ふたたび『三国志』。卑弥呼が親魏倭王の称号をえたと共に、その配下の難升米(なんしょうまい)・掖邪狗(えきやこ)等は率善中郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利(ぎゅうり)は率善校尉(そつぜんこうい)という中国称号を与えられた。すなわち倭国では女王も、その主要な配下も中国式制度の中の称号によっていたのである。
 そして注日すべきこと、それは卑弥呼の使者たちが帯方郡へ往来するとき、帯方郡治(ち)にいたる前に、“幾多の帯方郡内の「県」を通過していたこと”、それは疑う余地がないという点だ。少なくとも「郡 ーー 県 」の制度は三世紀以降の倭人(の支配層)にとって周知のところであった。そして洛陽(らくよう)に至った難升米たちは当然、その途中「国 ーー 県」の制の中を行き、この制を知悉(ちしつ)したのである。
 次に『宋書』。倭王武(わおうぶ)は中国の天子に対して「臣」を称し、「藩」を称し、例の将軍号などの中国式称号を倭王以下、愛用していた。「自称」さえした。ここに及んでも、なおかつ中国式の「県」制度に対しては無関心だったのだろうか。
 以上の状況を総括すれぼ、三世紀以降において倭国がいつ中国式「国 ーー 県」制を模倣し、襲用したとしても、不思議はない。もちろん、必ずしも中国式発音で「県」と呼んだという意味ではないけれども、中国の天子の配下の倭王として「国 ーー 県」制を襲用していた可能性はきわめて高い。そのようにいいうるであろう。
 そして反面、記・紀のしめすように、“九州において「県」の出現が多く、かつ早い”。このような史料上の痕跡に出会うのである。
 以上のような考察に立ってふりかえれば、“邪馬一国 ーー 九州王朝の故地において、中国風の「国 ーー 県」制(に相当する行政単位)が施行されていた”という、この命題は、実は何の他奇も存しないところなのであった。なぜならこの日本列島を代表する一中心国が“行政制度をもたぬ”ことはありえず、またその行政制度に対して“中国の行政制度が影響していない”そのような状況の方が逆に考えがたいところだからである。

【ここまでの古田氏の結論は、あくまでも推論である。これから精密な論証が始まる】
 

引用『寛政原本と古田史学』①(古田武彦)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月31日(金)12時00分14秒
     一

 「あった、あった、あったよ。」
 「何があった。」
 「寛政原本だよ、寛政原本。」
 「そうか、見せてくれ。」
 「うん、また連絡する。」
 和田喜八郎さんとわたしの会話だった。だが数ヵ月後、和田さんは逝った。その後の経過は知らない。ともあれ、彼は病み、天へと永遠に旅立ったのである。わたしは疑わなかった。長いつき合いの中で彼の言い方をそれぞれのケースにより、知悉していた。だから少なくとも、彼に「寛政原本」と見えたもの、それを彼は見た。それをわたしに告げたのである。


      二

 今回、それが裏づけられた。寛政原本が出現したのである。発端は、昨年(平成十八年)の十一月十日(金曜日)東京・八王子の大学セミナーにおける「発見」だった。弘前市の竹田侑子さんから送られてきた古文書(明治写本)の中に、一冊、それが含まれていたのである。早速、わたしが竹田さんにそれを報告すると、次々に(わたしの家に)送られてきた。
それらの中にも存在したのである。それらを左に記そう。

 第一(十一月十日)
「寛政五年七月、東日流外三郡誌 二百十巻 飯積邑和田長三郎」
 第二(十一月中旬)
「東日流内三郡誌 安倍小太郎康季、秋田孝季編」
 第三(同 右)
「付書第六百七十三巻、寛政二年五月集稿、陸州於名取、東日流内三郡誌、秋田孝季、和田長三郎吉次」
 第四(同 右)
「建保元年七月安東七(「十」か)郎貞季殿之軍諜図、東日流外三郡大図、文政五年六月、和田長三郎源吉次(花押)(カラー版)」
 第五(今年二月上旬)
「東日流内三郡誌、次第序巻、土崎之住人秋田孝季(第一巻と合冊)」
 第六(今年六月二十二日)
「(表)水墨画、秋田孝季(裏)視鏡像自筆、千季(花押)」(三枚は薬草の漢方)
 第七(今年六月二十四日)
「第五百巻之廿三~廿七、石塔山荒覇吐神社秘伝(白山神、三輪山神、荒覇吐神、天竺神、仏陀、紅毛国神、アブラハム)」

 以上について簡明に解説しよう。これらはいずれも、竹田侑子さんが実兄の藤本光幸氏より“うけついだ”文書類である。
 その一は、第一、二、三、四、六、七の六種類。藤本氏が生前から所持されていたものである。おそらく早い段階で、和田喜八郎氏より藤本氏へ“ゆずられた”ものと思われる(竹田侑子さんによる)。(第六、七は検討中。)
 その二は、第五。これこそ、和田喜八郎氏がわたしに告げたところ。その一端である。
喜八郎氏亡きあと、長男(孝)と長女(章子)のお二方より、藤本光幸・竹田侑子・藤本長伸(光幸氏の長男)の三人へと「使用権」を“ゆずられた”ものである(石塔山において)。これが、光幸氏亡きあと、竹田侑子氏へ“ゆずられた”のである。(和田孝氏も没)。
 右が、竹田侑子さんよりわたしへと送られてきた古文書中に存在した「寛政原本」の来歴であった。


      三

 当然ながら、検証は十全を期した。わたしは親鸞研究以来、筆跡研究を基本テーマとしてきた。蓮如の年代別筆跡の基本研究は、いわゆる「蓮如切断」(歎異抄蓮如本)の報告となった。(史学雑誌75編 3号、昭41)。
 親鸞の教行信証坂東本の筆跡研究、また料紙の顕微鏡写真撮影による検証はわたしの研究史の中枢となった。さらに法華義疏の筆跡異動の研究、また料紙の電子顕微鏡撮影は斯界未曾有の収穫となった。
 今回も、生涯の研究経験をこの「寛政原本」の検証という一点にかたむけた。国際日本文化研究センター(日文研)による電子顕微鏡撮影(右の第一から第五まで)によっても、いっさい「問題なし」の結果だった。近世古文書として“合格”だったのである。
 これは元・東京学芸大学教授・西村俊一氏によっても裏付けられた。氏は近世思想史の分野で古文書渉猟の研究経験を早くから積んでこられた方である。
 さらに、日文研の笠谷和比古教授は京都大学において近世古文書の演習をうけもたれる、斯界の専門家として著名な方であるが、これらの古文書(第一から第五まで)について「専門家なら、これを近世文書と認めない人はいません。」と断言されたのである。 また、元・秋田大学学長の新野直吉氏は、このような近世古文書(右の第一から第六まで)を学界が早くから知っていたら、従来のような「偽書説」は生じなかったであろう。少なくとも論争のレベルは全く変わっていたはずだ、と率直に述懐されたのである。
 秋田県の秋田市中央図書館の学芸員の方々も、同意見であった。


;これは観覧が難しい古田氏学の会の文をコピーしたものです。インターネットで公開された分なので、著作権上の問題はありません。
 

「江田船山古墳出土鉄剣銘文」の真実

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月27日(月)19時01分5秒
  江田船山古墳より出土した銘文に、「獲加多支鹵大王」の文字がある、それは稲荷山古墳の銘文と同じである、とそういう話がありました。それが今の定説といっても過言ではありません。

しかし、実はそれは全くの「大嘘」だったのです。実はこの銘文、「獲□□□鹵大王」と書いてあり、決して「獲加多支鹵大王」ではなかったのです。

それでは全文をあげましょう。(もっとも参考として、です)
台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也

あえて訳すと、「天の下を治めたワ□□□ル大王に典曹人である□□弓が奉ります。八月中……(中略)……作刀者の名はイタフトワ(?)で、書いたのは張安なり」

要するに、どの大王に対して、どの人物が、誰に書かせて、誰に作らせたかもわかっていない、「わからない事だらけ」の銘文、即ち迷文なのです。

これでは「ワカタケル大王」以外にも、いろいろ読めますし、また実際に「反正天皇」とする説もありました。これを「雄略天皇」に充てるのは即断なのです。

 

神功皇后の年代

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月27日(月)11時03分14秒
  ところで、神功皇后はいつごろの人でしょうか?

私が『古事記』及び『日本書紀』を基に求めたところ、それは347年に仲哀点のが没してから、後に「皇后摂政」と呼ばれる事実上の大和王朝の大王になったと分かりました。347年といえば、ちょうど高句麗が強くなってきたころ。

半島での地位を強くするため、大和王朝の代表として(九州王朝の後押しを受けて)新羅に行ったと考えられるのです。

やはり、神功皇后は実在の人物であるといえます。
 

神功皇后の真実

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月26日(日)16時07分37秒
  記紀の「熊襲征伐」や「新羅出兵」説話から受けるヒローイン像の語られる時代背景の特徴である

海中の魚が船の進みを助ける

と、いう説話内容は、その説話の語られた時代の古さを表していると思われるが、ここでは4世紀の人であろうと思われる、仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母である、神功皇后の実像を探ります。

『日本書紀』から
1、
仲哀天皇の不慮の死によって生じた天皇空位を大和にいる忍熊王側と筑紫遠征軍の誉田別皇子(後の応神天皇)側との王位継承者争いによる武力衝突にあたっては共に将軍を立てて戦うのであるが誉田別皇子には竹内宿禰と武振熊が忍熊王側には倉見別と五十狭茅宿禰が付き~~最終場面で、敗北濃厚な誉田別皇子側は偽装の和睦提案をして騙し、勝利する。

この勝利にあたつて神功皇后は陣営の中にいて何をしていたのかと云えば、自らの運命と誉田別皇子の運命を、竹内宿禰と武振熊に委ねていただけです。

ここには「熊襲征伐」や「新羅出兵」時の勇ましいヒローイン像はまったくありません。ここに、元々の神功皇后の実像が見えるわけです。

2、
仲哀天皇崩御52歳、在位9年
神功皇后崩御100歳、在位69年
以上「日本書紀」記述

この、年齢からして当時(仲哀時代)は倭国固有の二倍年暦が採用されていたと思われ、実年齢は仲哀は26歳、神功は50歳で崩御した。

応神天皇の出生に関しても、この二倍年暦で解けば仲哀天皇の死から5ヶ月経って誕生したことになり、何ら不思議とするものではありません。

また、『古事記』を見るとほとんど新羅と戦っていない。

ここで私が出した結論、それは
「神功皇后は倭国と新羅の和僕のために派遣された」
というものです。
 

皇国史論「多元史観」編⑱関東と九州

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月26日(日)16時01分31秒
  さて、ここで話を倭健に戻そう。倭健は関東を平定した。このことを裏返せば「まだ関東は平定されていなかった」ということになる。

しかし、崇神天皇のころに関東から福島県にかけての一帯が大和に平定されていたことは前述の通り。では、何が起こったのか。

実は、関東。ここは再び大和から反抗したのではないか、とするのが私の説である。即ち、関東地方は大和から「独立」を果たしたわけだ。

その「反乱」を抑えようとしたのが倭健のようである。どうやらほとんど戦わなかったようだが、結局「熱田神宮」を創る等、「実質的勝利」をした。

なお、ここでよく倭健と間違えられる『常陸国風土記』の倭武天皇について。

『常陸風土記』の主役はこの天皇で、各地の地名起源伝説にこの天皇の言行がかかわっています。

常陸以北征討のために先に着いた倭武天皇は、後から到着した皇后オオタチバナヒメと、アキタの里で天皇は鹿を狩り皇后は海の幸を漁って競争し、楽しく大宴会をおこなったことが見えます。

倭武天皇は普通ヤマトタケルのことと言われていますが、これは資料を素直にみると、「倭王武」九州倭国の倭王武ではないかと思われる。

なぜなら、ひとつ目に倭健は決して天皇ではないこと、若し天皇なら『古事記』がそれを漏らすはずがないこと。二つ目に、この風土記ではほかの天皇の名が美麻貴(ミマキ)・品太(ホムダ)と言う風に漢字が音読みされていることから、倭武は「ワブ」と読むべきで、「ヤマトタケル」とは読めないこと。

『常陸風土記』にはまた「倭武天皇、巡狩天下」と見え、倭王武が大倭国をあまねく巡幸したことが記されています。もちろん伊豆の大船で海路巡幸したのでしょう。しかしこの天皇には後になって崇神とか応神とかの名が付けられませんでした。九州倭国の王だったからです。

さて、倭王武が関東に来たのは朝鮮での戦いが一段落したからです。つまり、神功皇后の「三韓征伐」が事実であった裏証明なのです。
 

皇国史論「多元史観」編⑰仲哀天皇と神功皇后

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月26日(日)10時50分41秒
  仲哀天皇は九州にいた。

なぜか。

それは、父の倭健があろうことか九州王朝の大王を暗殺したため、謝罪、または「人質」として言ったのではないか。でないと、ありえない。

たとえてみると、イギリス国王を暗殺したオーストラリア人の息子が堂々とイギリスに行くようなもの。しかも、仲哀天皇はそのような「敵地」で「即位」までしているのである。

ここで言っておくが、仲哀天皇は「即位の前」から九州にいたという事実だ。『古事記』によると、成務天皇の死後直ちに九州で即位したようである。(『日本書紀』の内容は違う)

ここで視点を九州王著に変えてみよう。家来の景行天皇(正確には大王)は、分家であるにもかかわらず息子を使って暗殺に来た。その後、大和は関東へ東征したのでひとまず安心、しかし、今度は高句麗が任那にやってくる。

若し朝鮮へ出兵している間に大和が攻めてくるとかなわない。そこで、とりあえず仲哀をこちらへ連れてこさせよう、和僕の証明として・・・『古事記』ではそのころ大和王朝が朝鮮に出兵した記録は見当たらない。すると、やはり朝鮮に出兵したのは九州ではないのか。

もうすでに「倭地」たる任那は戦闘状態に入っていること、疑えない。なのに、神功皇后の出兵は遅い。

話が少しずれた。再び『古事記』に戻そう。

それによれば、仲哀天皇は即位後、九州王朝に反乱する。そして、敗北。

『記紀』は次の二つの説を載せる。
①敗北、そして戦死。
②決起、そして天罰。
どちらにしろ、「仲哀は負けた」これが「正直な解釈」だ。結局、大和王朝は九州王朝に敗北し、大王たる仲哀も死んだのである。これほどの「完全敗北」、これは大和王朝史で唯一の出来事である。

九州からみれば、大和も同じ天孫族。それが二度も攻めてくるなど「予想外」だったのではないだろうか。九州の仮想敵国は「高句麗」であるのに、「親戚」たる大和が攻めてきたのだ。とんでもない「誤算」である。

そこで、九州王要の考えたこと、それが「神功皇后を新羅に派遣する」ということなのではないか。当時の倭国と新羅の仲は悪かった。しかし、神功皇后は新羅王家の血をひいている。(『古事記』による)

即ち、神功皇后こそが最も「新羅との交渉」にふさわしい人物だったのだ。

ここで一つの謎が解決する。それは、「神功皇后の第一子」たるホムヤワケが九州にとどまり、ホムタワケが大和に戻った理由である。これは、「人質」ではないのか。ホムタワケ、即ち応神天皇の兄を人質に取った、これが事の真相ではないだろうか。
 

皇国史論「多元史観」編⑯倭健は実在した

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月26日(日)10時23分26秒
  大和王朝、これを述べる際に避けて通れぬ人物がいる。それが倭健命である。

『古事記』の説話を事実と認めるからには、当然倭健も実在した、少なくとも(誇張は当然ありうるが)当時そのような話が存在した、ことを認めなければならない。

私はさっき、「誇張は当然あるが…」といった。なぜなら、倭健の息子・仲哀天皇がのちに即位しているからであり、当然その時に「誇張」はあったに相違ないからである。(同じような現象は仁軍皇后にも見られる)

しかし、倭健の行動を見るといかにも「あり得る」話が大半なのである。

例えば関東遠征。あれほど大規模な遠征をすると、何か考古学的な証拠があるはずである。

そして、事実それは存在する。近畿と関東の古墳の副葬品が似ているのである。(詳しくは別述)

また、熊襲健の暗殺。私はそれを九州王朝のものであると考える。なぜなら、その後仲哀天皇はなぜか筑紫に行き、(人質?)成務天皇は「近江遷都」をしているからである。

近江遷都、これは大抵外敵の侵入を防ぐために行われる。天智天皇も然り。

外敵、これは誰か。それは倭健に暗殺された者の遺族・遺臣――九州王朝や出雲王朝の事ではないか。即ち、「西からの報復」を恐れて大和王朝は近江に遷都したのである。

そのような意味でも倭健説話はリアルである。
 

皇国史論「多元史観」外編①記紀でみる九州王朝

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月24日(金)20時19分45秒
  中国側の文献だけではありません。記紀にも「九州王朝」が示されています。記紀は、古代の日本列島の出雲と九州に王朝があったことを記述しています。
つまり「出雲王朝」と「九州王朝」です。
ここでは、あらためて、記紀に示された出雲と九州の各王朝の存在を確認します。
まず、出雲の王権「出雲王朝」のことを記述した部分を示します。『古事記』に次の記述があ
ります。
是以此二神、降到出雲國伊那佐之小濱而、拔
十掬劔、逆刺立于浪穗、趺坐其劔前、問其大國
主神言、天照大御神、高木神之命以、問使之。
汝之宇志波祁流葦原中國者、我御子之所知國、
言依賜。故、汝心奈何。爾答白之、僕者不得白。
我子八重言代主神、是可白。然爲鳥遊取魚而、
往御大之前、未還來。
同様に、『日本書紀』に、次の記述があります。
故以即配經津主神、令平葦原中國。二神、於
是、降到出雲國五十田狹之小汀、則拔十握劔、
倒植於地、踞其鋒端、而問大己貴神曰、高皇産
靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故先遣我二神、駈
除平定。汝意何如。當須避不。時大己貴神對曰、
當問我子、然後將報。是時、其子事代主神、遊
行在於出雲國三穗之碕。(日本書紀巻第二神代
下)
このように、記紀にはともに、天國の神々が葦原中國を平定するため、出雲國の伊那佐之小濱(書紀では五十田狹之小汀)に降到したと記いたさ述されています。つまり、出雲は葦原中國であったことが示され、そして、そこには大國主神(書紀では大己貴神)と其子事代主神がいて、
おおあなむち
その治める國の範囲は、ここ記述された地名に
よれば、伊耶佐之小濱から三穗(美保)之碕ま
で記されていますから、通説で比定される島根
県出雲市大社町杵築北(稲佐)から松江市美保関
町までの一定の領域を有します。
また、書紀には次のようにあります。
號大日本豐秋津洲次淡路洲次伊豫二名洲
次筑紫洲次億岐三子洲次佐度洲次越洲
次吉備子洲由此謂之大八洲國矣
従って、出雲國の勢力は、東は越や淡路、西
は筑紫までの範囲に及んでいたと考えられます。
さらに、書紀の一書には、天照大神が「豊葦
原中國は、わが子が王であるべき地である。」と
述べていることが書かれ、この葦原中國には、
王が存在していることが前提となっています。
出雲に一定の領域の國があって、それを治め
る王、代々の神がいたのですから、これは出雲
の王権を示す「出雲王朝」と呼んで差し支えな
いでしょう。
次に、九州の王権「九州王朝」の存在を記述
した部分を示します。
『古事記』に次のようにあります。
故、爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石
位、押分天之八重多那雲而、伊都能知和岐知和
岐弖於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、天
降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。故爾
天忍日命、天津久米命、二人取負天之石靭、取
佩頭椎之大刀、取持天之波士弓、手挾天之眞鹿
兒矢、立御前而仕奉。
故、其天忍日命、天津久米命、於是詔之、此
地者、向韓國、眞來通笠紗之御前而、朝日之直
刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。詔而、
於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯
理而坐也。
また『日本書紀』には次のようにあります。
于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天
津彦彦火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、天
磐座、此云阿麻能以簸矩羅。且排分天八重雲、
稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。
既而皇孫遊行之状也者、則自槵日二上天浮橋、
立於浮渚在平處、立於浮渚在平處、此云羽企爾
磨梨陀毘邏而陀陀志。而膂完之空國、自頓丘覓
國行去、頓丘、此云毘陀烏。覓國、此云矩貳磨
儀。行去、此云騰褒屢。到於吾田長屋笠狹之碕
矣。其地有一人。自號事勝國勝長狹。皇孫問曰、
國在耶以不。對曰、此焉有國。請任意遊之。故
皇孫就而留住。
同様の内容が書紀の一書群にもあります。
一書曰、高皇産靈尊、以眞床覆衾、裹天津彦國光彦火瓊瓊杵尊、則引開天磐戸、排分天八重
雲、以奉降之。于時、大伴連遠祖天忍日命、帥
來目部遠祖天槵津大來目、背負天磐靫、臂著稜
威高鞆、手捉天梔弓・天羽羽矢、及副持八目鳴
鏑、又帶頭槌劔、而立天孫之前。遊行降來、到
於日向襲之高千穗槵日二上峯、天浮橋、而立於
浮渚在之平地、膂宍空國、自頓丘覓國行去、到
於吾田長屋笠狹之御碕。時彼處有一神、名曰事
勝國勝長狹。故天孫問其神曰、國在耶。對曰、
在也。因曰、隨勅奉矣。故天孫留住於彼處。其
事勝國勝神者、是伊奘諾尊之子也。亦名鹽土老
翁。
このように、記紀にはともに、天之石位(書
紀では天磐座又は天磐戸)から竺紫日向之高千
穗之久士布流多氣(書紀では日向襲之高千穗峯
など)に天降り、笠紗之御前(書紀では吾田長
屋笠狹之碕又は吾田長屋笠狹之御碕)に着くと
國があったことを示しています。
そして、その國は、韓國に向うとされます。
韓國に向うのは北九州しかありません。
また、天孫降臨の地は、竺紫日向之高千穗之
久士布流多氣であり、この地名は、文字どおり
竺紫であり、北九州の地です。
この國を治める者がいました。大山津見神(書
紀では大山祇神)です。その娘の木花之佐久夜
毘賣を邇邇藝命は妻としました。
以上のとおり「出雲王朝」と同様に、九州に
も國があって、それを治める大山津見神がいた
のですから、これは九州の王権を示す「九州王
朝」と呼んでよいでしょう。
なお、書紀では笠紗之御前は吾田にあるとさ
れます。『古事記』には単に笠紗之御前とありま
すが、神武天皇の項に「故坐日向時娶阿多之小
椅君妹名阿比良比賣生子」とあり、竺紫の日向
と吾田(阿多)との関連性を示唆しています。
また、木花之佐久夜毘賣の別名は、神阿多津
比賣であり、笠紗之御前、吾田の地名は日向と
の関連性が強いことから、やはり、九州の地名
をさすと考えられます。
 

皇国史論「多元史観」編⑮垂仁天皇

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月23日(木)14時41分22秒
  さて、九州では邪馬台国依頼の天孫王朝と、海洋を主体とした豊前王朝があり、瀬戸内海は吉備に統一された様子を見ていったわけだが、垂仁天皇のころの大和王朝は、『古事記』によれば重大な事件があったという。

それは「沙本彦の乱」である。

これは、沙本城に籠った沙本彦と、大和の垂仁天皇の戦いで、もしこれで垂仁天皇が負けたら神武天皇以来の歴史が途絶えてしまう重要な局面であった。

この、「沙本」の位置だが、大和説と大阪説の二つがある。私は大阪説を支持する。(最後に「奪い取る」との表現があること、等の理由により摂津の可能性が高いと判断した)

この説話では「玉作りの土地を奪い取った」とあるが、摂津の東奈良遺跡では勾玉が出土している。

さらに、同じ遺跡で大型銅鐸が多数出土しており、纏向遺跡に並ぶ文化的・政治的な「近畿の重要地」といった場所なのです。

しかも、ここでの戦いは「三年」も続いたといいます。(別の解釈もあるが、それでも大きな戦いであることは変わらない)

ところが、ここで重大な問題が発生する。

それは沙本彦の出自である。

『古事記』では沙本彦は日子坐王の子であるとしている。だが、それは有り得ない。

なぜなら、日子坐王はまず第一に崇神天皇時代の三道将軍のひとりであり、そのような人物の息子が反逆する確率はきわめて少ない。第二に、沙本彦は銅鐸圏の中心地にいたのに対し、天皇家は「反、銅鐸圏」の立場にあるとみられる。

さらに三つ目の理由。それは日子坐王の子孫が多すぎる、という事実である。ここで、「日子坐王関係の系図は信憑性に乏しい」といっても過言ではない。

とにかく、銅鐸圏の支配者、それが沙本彦であった。もしそれに垂仁天皇が敗北したら、日本は今でも「銅鐸国」であったかもしれない。

結局、垂仁天皇は沙本城を焼き討ちにして長い戦いは終わった。このような残酷なやり方は日本では珍しいもので、たいていはこのような場合降伏を待つものだが、垂仁天皇は待ち切れなかったのであろう。

こうして銅鐸圏最後の砦たる沙本城は陥落し、近畿を天皇家が統一することとなった。とりあえず、この時期の天皇家を「大和大王」と呼んでおこう。

この大和大王家だが、次の景行天皇のころになると新たな問題に直面した。それが、先程あげた「関東地方の離反」である。

前述べたように、このころは近畿全体で鉄器が不足していた。去年淡路島で日本最大級の鉄器製作所の遺跡が発見されたが、それは鉄が主に瀬戸内地方を中心としていたことを物語る。

したがって、天皇家にとって瀬戸内地方との連絡は急務であった。摂津の平定に熱心だったのはそれが背景にある。

一方で、鉄器不足は即ち「国力不足」を意味する。さらに垂仁天皇時の戦いで、大和王朝は完全に疲弊していたのである。
 

皇国史論「多元史観」編⑭倭の朝鮮進出

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月23日(木)12時14分49秒
  ・高句麗好太王碑の改竄問題
高句麗好太王碑の問題は、日韓文化交流の中で微妙な問題をはらんでいる。なお、この王を以前は好太王と呼んでいたが、最近は広開土王と呼ぶようである。

現在この石碑は鴨緑江北岸の中華人民共和国領にあるが、朝鮮半島から満洲に版土を有する高句麗王国を発展させた好太王の事績を讃えて、4世紀末-5世紀始めに建立されたものとされる。

この石碑を世界に紹介したのは、日本陸軍の酒匂景信中尉である。日清戦争の10年前、明治17年 (1884年) のことだった。もちろん、石碑は当時の清国領土内にあった。

酒匂中尉は参謀本部から派遣され、仮想敵国である清国の内情を探っていた情報将校であるが、この使命が誤解されて、改竄説に大きな影響を与えたと思われる。

碑文には、391 年に「倭が新羅や百済を臣下とした上、高句麗に攻め入って来た」と解釈される文言がある。好太王は倭の攻撃を撃破して高句麗の隆盛を築く訳だから、高句麗の立場からすれば極めて誇るべき功績である。

しかしこの前半を認めると、倭が朝鮮半島で大きな勢力を持っていて、新羅や百済を臣下としていた、ということを認めないといけない。

これは、韓国/朝鮮の国民感情からとても受け入れられる内容ではないだろう。そこに、この碑文が改竄されたのだ、という説が出て来る遠因があると思われる。

改竄説は古田武彦氏の「失われた九州王朝」によると、次のようないくつかの変種があるらしい。


まず、酒匂中尉が発見直後に改竄した
この説では、以下を立証しなければならない

酒匂中尉は、 この碑文が古代に日本が朝鮮半島を支配していた証拠になり得ると悟った
そして、その証拠が明かになるように、碑文を改竄した

私の考えでは、これは無理である

酒匂中尉は、この碑文を理解し、古代史における重要性を悟らねばならない。 酒匂中尉は考古学に興味があったそうだが、 明治10年代に上のような知識や意識は持っていたとは考えにくい

酒匂中尉は碑文の拓本を購入している。 つまり、碑の利権を所有している拓工が存在する訳である。 拓工を無視して碑文を改竄することは困難である

この地は仮想敵国(清国)の領土である。いかに清国の勢力が衰えたといっても、 部隊も率いていない一将校が勝手に改竄できるものではない

10年後の日清戦争のときも、 清国は定遠・鎮遠という巨大な戦艦を有し、 日本は開戦をためらった。 弱小国日本にとっては清国は「眠れる獅子」どころではなかった

碑は実に巨大で、拓本は数十枚の半紙をつなぎ合わせたものである。 酒匂中尉が自分で拓本を作ったとすれば、石碑の存在を知った上で、 これが拓本を作るほど重要なものであること
を察し、 大量の紙や墨などをあらかじめ用意していないといけない。 もちろん、現地の拓工と交渉した上である。まずあり得ないだろう

酒匂中尉が購入したのは碑文の拓本ではなく、 双鈎本といって、拓本を元に別の紙上に筆で書き取ったものである。

したがって、写しとるときに恣意的に書き換えることは可能であるし 実際そのような字もあるらしい。ただ、それをやったのは誰かである。 上のような理由で酒匂中尉ではないだろうから、 酒匂中尉の「改竄」ではないだろう

この説の提唱者は真面目な研究から唱えたものらしいが、 信奉者の中には以下のような思い込みを持つものはいないだろうか

酒匂中尉は情報将校、いいかえればスパイである。 スパイだから、どんなことでもやる
スパイと情報将校では、与える印象がひどく違う。 酒匂中尉をスパイと呼ぶ人は、この印象の違いを意識しているのだろうか

日本が後に朝鮮/韓国を併合するが、その企図はこの頃からあり、 将校全員に浸透していた筈だ 清国の統治能力は弱く、日本の情報将校は何でもやり方題だった 酒匂中尉が拓本を持ち帰ってから、参謀本部はその重要性に気付き 要員を送って改竄させた

この説がなりたたないことも、古田武彦氏が論証している

この件について、注意しなければならないことがある

酒匂中尉や、後の研究者が持ち帰った初期の拓本は、原碑文そのままでない。 このことは広く知られている。

拓工が碑に石灰を塗って美麗な文字を彫っているから、 研究にあたっては注意しなければならない、という初期の研究者の報告がある

この変更を (拓工ではない) 誰が行ったかを証明しなければ、 意図的な改竄とは呼べまい。 この証明なしに、酒匂中尉や参謀本部の改竄と呼ぶことはできない

・倭は4-5世紀に朝鮮半島北部に影響力を持てたか
日本において信じられている「4-5世紀において倭が朝鮮半島北部に影響力を持っていた」という考えに対し、海上交通が発達していない時代にそれは無理だろうという説があり、このことが改竄説を補強すると考えられるかも知れない。

これに関連して「4-5世紀に、倭が朝鮮半島北部において影響力を持っていたか」についての私見を述べる。


1この「倭」を現在の「日本」と等置するのは妥当でない

2好太王碑自体が現在中華人民共和国領にあることから考えても、 高句麗を朝鮮の王国と考えるのも無理があり、 満洲から朝鮮半島北部にかけての広い王国である (時代によって版図は異なる)

同様に「倭」も朝鮮南部から九州北部の両方を支配していた王国である可能性が高い

朝鮮の正規の史書「三国史記」や「三国遺事」によれば、 高句麗、新羅、百済に対する倭の脅威は非常に大きく、 国境で常に紛争を起こしている

このことは、倭が朝鮮南部に根拠を持っていたと考えないと理解できない

この倭が、朝鮮・対島海峡の両側に領土を持っていたとして、 日本列島から朝鮮半島に進出したのか、 逆に朝鮮半島から日本列島に侵入したのかは興味深い話題である

ただし、韓国の一部で信じられているらしいが、百済滅亡 (663年) 後、 百済王族が日本に来て天皇 (天武天皇?) になった、ということは信じがたい

3南北朝時代の中国の史書によると、 倭の五王は執拗に南朝皇帝に朝鮮半島の諸王国 (新羅・百済・任那他) の王位を与えよと要求している

南朝皇帝は、倭王に新羅・任那の王位は認めたが、百済王位は認めない

それも道理で、南朝皇帝は百済王に百済の王位を認めていた

 

皇国史論⑬九州王朝について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年12月23日(木)12時05分12秒
  漢字文化圏において「九州」というのは大変「政治的」な言葉なのです。漢和辞典をひけばすぐわかることですが、「九州」とは「皇帝陛下が治めているすべての土地」という意味なのです。

「尚書(書経)」などの中国の古典に用例があり、漢字文化圏の中では、そうおいそれと使える言葉ではないのです。

近畿地方の天皇家が全国を統一したのちも、西のすみっこの島が「九州」と称し続けてきたということは、この島を主たる領土とした政治権力がかつて存在したということを前提にしなければ考えられません。9つにわかれていたから「九州」だ、というような軽い言葉ではないのです。

ちなみに近畿の「畿」は、「都とその周辺の皇帝の直轄地」のことです。(こう考えると「中国地方」というのも大変な地名だと考えざるを得ません。出雲の大国主の勢力範囲のことではないでしょうか。)

「九州」と同じことが「太宰府」にも言えます。

「大宰」とは「宰相」のことです。ということは「大宰府=首相官邸」ということになります。決して、奈良盆地の天皇家が西のすみっこにつくった「左遷用の田舎役所」なんかではありません。

太宰府については様々な問題があります。まず、「太」と「大」のどちらが正しいか、ということにケリをつけておきます。

「書経」では「大」の字で記されています。しかし福岡県の地元では、「太宰府市」「太宰府天満宮」です。

ここで日本史の学者たちは「書経」の「大」を正しいと考え ─ ということは「大宰」が総理大臣の意味であることは知っているようですね ─ 史跡「大宰府」などという看板を立てたり、教科書にも「大」の字で記しているわけです。

答えはこうです。本家本元の中国で「大宰」を「太宰」と表記していた時代があったのです。中国南北朝時代の宋(420-79)の歴史を記した「宋書」では「太宰」が頻繁にでてきます。皇帝の弟がその役についているのです。

ところで「宋書」は、「倭の五王」の記事がのっている歴史書でした。「倭の五王」はどこにいたのか(=倭とはどこなのか)。

論理的に考えれば、「九州」の「太宰府」近辺しかありません。

史跡「大宰府政庁跡」はその手前にある建物の遺構のことですが、その廃墟の一隅の字(あざ)地名は何と「紫宸殿(ししんでん)」というのです。

紫宸殿というのは京都御所にもある建物で皇帝の御殿のことです。「九州」と同様、そうそう簡単に使えない言葉です。そこに皇帝の宮殿が存在したことがあるからついた地名としか考えられません。

もうひとつ、その「大宰府政庁跡」正面から南に通っている道路の名前は「朱雀大路」というのですから、恐れ入ります。ここに皇帝の都があったことは疑う余地がありません。

天満宮の手前の史跡「大宰府政庁跡」は九州王朝の宮殿(=皇居)跡であり、太宰府(=首相官邸)跡は天満宮の敷地地下にあるはずだ、ということになります。

九州王朝の「主神」は誰だったか。それは「天照大神」ではありません。実際、彼女をまつる神社は北九州には多くはないのです。

そのかわり博多湾岸に多く存在するのが「天神神社」です。ニニギノ命の本国である天国の主神です。

これに対して、大和に移った神武天皇にとっては、天照大神の名は「錦の御旗」に利用できた ─ 自らを由緒ある九州の王家出身として誇示する材料にできた ─ ので、大和の「主神」は天照大神となったわけです。

何はともあれ、「天神さん」はもともとは九州王朝の主神であった。それが、何故に学問の神様・受験生の守護神になったのでしょうか。

平安時代初期に「大宰権帥」として左遷された菅原道真は、死後、「太宰府天満宮」に新入りの神様として「合祀(ごうし)」されました。

「合祀」とは「あわせまつる」、すなわち日本の神社では、まつられる神様は1神とは限らないのです。もちろん初めは1神で発足した神社が大部分なのでしょうが、その神をまつる人間集団が、周辺の集団と合併するにつれて、神様も1ケ所にあわせまつられるようになるわけです。

菅原道真は、九州王朝の主神をまつる神社の「新入り」になったのですが、既に九州王朝が滅んでから時代が相当たった後のことで、もともとの主神たる「天神」よりも「菅原道真」の方がネームバリューが圧倒的に上になってしまったのです。

その結果、「菅原道真=天神」という神格の融合とも言うべき現象がおきてしまった。そしてさらに、学問の神様としての「天神」が九州王朝とは無関係の地にも出現するという事態になり(たとえば江戸の湯島天神)、現代に至っているわけです。


 

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