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断絶してるのは畿内

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)20時51分32秒
  だろうが。

いったい何を見ているのだ?
その眼は節穴か?

倭国大乱前に九州も出雲も銅鐸祭祀から
4隅突出墓や鏡祭祀に移行しているだろうが。

特に九州は博多湾に王墓が連続する。

一方畿内は銅鐸祭祀のまま、
倭国大乱では九州側から攻められ
高地性集落に逃げているわけだ。

畿内のいいたいどこが連続するのだ?
 

倭国大乱が説明できない

 投稿者:追う者  投稿日:2008年 2月10日(日)19時24分44秒
  ということのようだ。

 なぜか、断絶してしまうからだ。

 畿内の弥生末、古墳初めの時期は、環濠集落から、高地性集落となり、
分散的に住む時代が古墳時代、邪馬台国の時代となって連続する。

 古墳時代は、律令期につながる。

 地域的に見れば、外来土器、土師器、須恵器で関係は考察されるし、
古墳時代前期、中期、後期の画期は、明瞭に看取できる。

 吉野ヶ里は環濠集落だった。日本最大の。この集落が断絶してしまった
原因は何か。そして住んでいた人はどこへ行ってしまったのか。

 その鍵は、倭国大乱の九州に求められよう。
 

次の問題

 投稿者:追う者  投稿日:2008年 2月10日(日)18時55分55秒
  に、話を移す。

 208/206が、2.12〜2.14に、三角縁がはいるが、これは、朝鮮産鉛と、弥生期の鉛
とは異なったグループである。

 新井説は各種鉛の混合を説いているが、荒神谷分析例を見ると、二つの鉛を混合した
場合、両側の間にに同位体比は分布する。

 もし、弥生の鉛と朝鮮の鉛の混合であれば、弥生鉛ずばりの三角縁があってもよさそう
だが、それがない。

 これまでの、ブレンド説では説明できないグループになっているようにも見受けられる

 近畿式銅鐸の鋳潰しが行われたような痕跡は見つかっていないようだ。

 飛鳥遺跡の富本銭鋳造跡では、古墳時代の鏡の破片が出土していて、スクラップの
鋳潰しが、古代の基本的な鋳造技術だったようだ。

 さて、弥生鉛の三角縁鏡が出土するか。
 

それが問題だ

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)17時23分36秒
  >>>
前方後円墳の被葬者は。
何がしかの権力者でしょう。
>>>

そりゃそうだ。


>>>
そのような、集約労働を組織しえた権力が倭国の中央政府でしょう。
>>>

普通はそうだろうな。
逆に、
だから通説の日本古代史は間違えたのだ。
いやそういう風に記紀を使ったわけだ。

>>>
それは三世紀に始まり、四世紀に全国的になり、五世紀に絶頂期を迎えるわけです。
>>>

これも普通はそうだが、
実情は渡来人の多発的な渡来だな。
脈絡もなく関東まで一気だから。


>>>
ということは、九州は文化の通過地域であり、
政府中央は、二世紀末か三世紀はじめ
に畿内に成立していたということです。
>>>

九州は通過点どころではなく、
怖い先着の渡来人が紀元前から中国の権威を笠に君臨し
瀬戸内海や畿内を攻めて奴隷を中国に100人も送っていた国だ。


>>>
古代の銅鏡の国産は、それを如実に物語っています。
>>>

鏡ぐらい渡来人なら作れるんだよ。
九州の100年遅れで拙劣なコピー鏡を作るしかなかった
新来の田舎渡来人はひたすら銅鐸族奴隷にして開墾に頑張ったのだ。
 

じゃあ、誰ですか。

 投稿者:追う者  投稿日:2008年 2月10日(日)16時42分49秒
  前方後円墳の被葬者は。

 何がしかの権力者でしょう。

 そのような、集約労働を組織しえた権力が倭国の中央政府でしょう。

 それは三世紀に始まり、四世紀に全国的になり、五世紀に絶頂期を迎えるわけです。

 ということは、九州は文化の通過地域であり、政府中央は、二世紀末か三世紀はじめ
に畿内に成立していたということです。

 古代の銅鏡の国産は、それを如実に物語っています。
 

繋げる必要なし

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)15時56分9秒
  新来の渡来人の畿内など繋がるわけもない。

そもそも大和朝廷と前方後円墳の被葬者自体が
つながっていない。

しょせん巻向石塚でもAD200年を遡れないんだから
倭国大乱以前に遡る勢力による卑弥呼の共立など
畿内とは無関係の事柄。
 

誰が妄想してるんです

 投稿者:追う者  投稿日:2008年 2月10日(日)14時54分33秒
  かね。

 悪夢ですよ。つながらない。歴史が。

 一つ、つながるとすれば、卑弥呼が神功皇后で、熊襲、三韓征伐時に、魏国のプレゼント
を筑紫で受け取った。

 熊襲の捕虜の中には、平原巨大銅鏡を作った鏡職人がいた。大和朝廷へ連行した。

 魏国の鏡を複製することを命じられた捕虜職人は、鏡作り神社の地で、鏡製作を
行った。

 ということになる。
 

妄想まっ盛り

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)13時46分16秒
  だな。

ま、
九州の首長=卑弥呼に下された三角縁神獣鏡の元鏡が、
九州に居た青銅工人達とともに、東へ移動した。
のは
卑弥呼の死後だ。

卑弥呼が生きているうちに
魏鏡のコピーなど許すはずもない。
権威を落とすコピー鏡などな、
 

九州魏鏡下賜説を追う

 投稿者:追う者  投稿日:2008年 2月10日(日)13時11分2秒
  伊都国の女王は、死後埋葬に当たって、銅鏡を割られて葬られた。
よみがえりを防止されたのか。

九州の首長に下された三角縁神獣鏡は、九州に居た青銅工人達とともに、東へ
移動した。
 移動する際には、古墳葬送儀礼も、一部の権力者とともに東へもたらされることに
なった。

 まもなく卑弥呼は死んだ。248年

 巨大な墓の造営が始まった。このプランは瀬戸内中東部の勢力が持っていた。
 かれらが糾合された。

 卑弥呼の死後、爆発的なブームが起こった。卑弥呼の霊力にあやかりたい権力者に
複製されて配布されることになった。

 九州の工人は、銅矛の技術そのままに三角縁鏡を鋳造した。

 刀は刃が研磨されていればいい。茎の中子は放置された。同じく鏡の鈕の中子も放置した
 

魏鏡で何が悪い

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)12時54分9秒
  記年鏡をどう考えるかだ。

コピー鏡などありがたがる畿内の新来の渡来人に
魏志倭人伝を入手し年号だけ真似できた能力は考えにくい。

本物も年号が書いてあった、
真似するうちに変な年号も作ってしまった、
と考えるのが自然だ。

椿井大塚山の同氾鏡も外区がずれているし、
内区だけの三角縁が鏡作神社にあることからは、
三角部を付けて大型のにぎにぎしい花輪鏡を畿内で考えたんだな。

中国からも半島からも出てこない由縁だ。

>>>
九州から下賜されたとして・・・
三角縁に関しては、西日本畿内に多いわけですが・・・
>>>

またうわごとか。

下賜の主体が九州で、
コピー鏡の主体が西日本で良いではないか。
頭大丈夫か?
 

九州魏鏡説?

 投稿者:笑う者  投稿日:2008年 2月10日(日)12時26分18秒
  >単純に,
九州から本物の魏鏡の三角縁を少しもらって
岡山や畿内や九州の後進の新来の渡来人は
ありがたがってコピー鏡を作って副葬した。

 「魏鏡説」ではないですか。今のところ、新井先生は、国産ばかりだという意味合いの
発言をしてますが。

 九州から下賜されたとして、結局、複製鏡が古墳に埋葬されていたということならば、
九州は単に経由地であり、伊都国の検察を受けたということではないですか。

 そう考えれば、下賜した主体の所在が問われるだけですが、三角縁に関しては、西日本
畿内に多いわけですが。

>九州では本来、本物や豪華なホウ製鏡を割って副葬。
鏡の霊力がその鏡を使っていた埋葬された個人に帰属する
という葬送風習・霊力観だろう。

 ならば、微妙に異なりますね。前期前方後円墳の葬送とは。割られた鏡もありますが
少ない。割れてしまった鏡が結構あるようだし。

 むしろ、弥生前期中期の九州の甕棺副葬に、前期古墳時代鏡の副葬は似ているように
思われますが。
 

花輪鏡

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)10時22分15秒
  と何回も言っているのに
記憶力は大丈夫かな。

九州で作ったとか、畿内で作ったとか
そんな由緒あるものではない。

岡山の例が新井氏の類似指数で同時鋳造が明確になったわけだ。
九州の藤崎遺跡の例もあったな。
あれは0.025%だという奇特なドンキホーテも現れた。

せっかく客観的な指標で荒神谷よりもっと確かに
同時鋳造・副葬としか考えられない例が岡山や九州や長野で出てるのに
畿内の材料とか九州の工人が呼ばれたとか
まったくどういう理解力か不思議な話だ。

単純に,
九州から本物の魏鏡の三角縁を少しもらって
岡山や畿内や九州の後進の新来の渡来人は
ありがたがってコピー鏡を作って副葬した。

九州では本来、本物や豪華なホウ製鏡を割って副葬。
鏡の霊力がその鏡を使っていた埋葬された個人に帰属する
という葬送風習・霊力観だろう。
 

銅鐸の九州出土

 投稿者:呆れている者  投稿日:2008年 2月10日(日)01時50分45秒
  も、以前話題になりましたね。

 吉野ヶ里では、ぐちゃぐちゃの銅鐸が出土しました。

 恐らく、出雲あたりから、略奪してきてスクラップにして鋳直し原料にしようとして
いたのでしょう。

 荒神谷は、逆に、九州系の工人が呼ばれ、畿内、倭国一般の材料とのブレンドで鋳造
されていました。

 という史観ですが。
 

三角縁九州下賜説

 投稿者:呆れている者  投稿日:2008年 2月10日(日)01時46分56秒
  ということですね。

 驚きましたね。三角縁を博物館ではじめて見てから数十年になりますが、一度も
聞いたことがありませんね。固定概念、ドグマだったと思っておきましょうか。

          奈良の大仏の鋳型が出たら、オレは学者をやめる。

 って、宣言してた先生がいましたが、ナンチャッテおじさんみたいですから。

 ということは、北九州勢力が、いつまで倭国を支配していたのですか。

 支配でなくとも、鏡を有難がったのはいつぐらいまでですか。
 

え。三角縁は九州製作?

 投稿者:呆れている者  投稿日:2008年 2月10日(日)01時40分52秒
  なんですか。お説は。

 この際、神岡の鉛なんかは別として、九州での巨大銅鏡製作もあったとするならば、
二世紀末に、平原の女王が亡くなった後、銅鏡の古墳埋葬儀礼と、銅鏡製作技術が、
三世紀半ばまでに畿内に来ていたということになりますが。

 九州で、三角縁製作工房跡が発見されたら、三日間断食しますね。約束しますよ。

 それも、三世紀半ばの遺跡から、鋳型とともに出てきたのなら。
 

それも駄目

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)01時18分56秒
  >>>
新井説に沿うと国内産、朝鮮産の鉛を使用し、
国産鏡が三世紀始め以前に完成域に達していたことからして、
>>>

九州が鏡のコピーでは先進地域だったことになる。


>>>
239年の舶来到着直後に大量生産が始まったと考えるのが
至極まともな考え方になるが。
>>>

つまり、
後進の岡山や畿内に古墳のできる3世紀初めに
画紋帯あたりから練習してやっとへたくそ三角縁を
花輪鏡に送る財力と技術が発生したということ。

つまり、コピー鏡の元の本物三角縁を九州から
出雲や岡山や畿内にも少しは送ったということだ。
それが魏の意向踏まえたごく自然な解釈だ。

送られた方はありがたやと恐れ入り、
年号も文字も無視してひたすら花輪につかったわけだ。
 

で、三世紀大量生産は?

 投稿者:勉強し直し者  投稿日:2008年 2月10日(日)00時34分21秒
  どうします。

 同一ロット生産が行われていなかった。とは断言もできないのも確かで、新井先生は
三角縁鏡の大量生産プロセスの考察もされようとしているようだ。

 ま、学問的評価はそれとして、三角縁鏡の大量生産が行われたとして、それがいつ
行われたのかということだ。

 新井説に沿うと国内産、朝鮮産の鉛を使用し、国産鏡が三世紀始め以前に完成域に
達していたことからして、239年の舶来到着直後に大量生産が始まったと考えるのが
至極まともな考え方になるが。
 

論理性が駄目だな

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月10日(日)00時01分16秒
  >>>
同一遺跡の個別の青銅器の識別に有効

なのであって、出土地も形式も、時期も異なる遺物は、グループ的な傾向分析は
できても、個体の鋳造ロットの同定など断定できないと考えておられるのだ。
>>>


これは嘘。
できないかどうかを検証しなかった
が正しい。

検証すれば先に指数を出していたか、
同定は不可能と発表していただろう、
20年もあったのだから。

望遠鏡でも分解能が悪くとも
問題なし。

見えるか見えないかだからな。

見えるなら使える
見えないなら使えない。

荒神谷で数本しかないなら
0.05%は厳しい閾値ということで、
使えるということだ。
 

学問のモラルハザード

 投稿者:勉強し直し者  投稿日:2008年 2月 9日(土)23時51分19秒
  天体望遠鏡の性能で例えるなら、

分解能が0.05%。であって、実際の観測時に重大な影響を与える、

シーイング:大気の状態

 について、無視した0.05%であるということだ。その辺を馬淵先生は熟知していて、
類似指数にしても、その他のカテゴリー分けにしても慎重に所論を述べるように
しておられたわけだ。

           同一遺跡の個別の青銅器の識別に有効

なのであって、出土地も形式も、時期も異なる遺物は、グループ的な傾向分析は
できても、個体の鋳造ロットの同定など断定できないと考えておられるのだ。

 荒神谷の鋳造では1チャージ1本鋳造の湯を継ぎ足す作業を想定し論述されている。

 それならば、湯は残り続けており、材料投入毎に比率がズレる。

 近畿式銅鐸が数本、同一チャージで作られていれば、100キロの溶湯が必要だ。

 このオーダーになれば、つい最近まで操業していた町工場の生産能力と変わらない。

 支持するか。
 

思考力の限界では?

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月 9日(土)23時35分5秒
  新井氏の類似指数は類似指数であって
それ自体は否定しようがない。

Pb206、207、208の鉛同位体の構成%を3次元にした場合の
青銅器同士の位置の近さを表すだけだ。

それが0.05%では遠すぎるとか近すぎるとかは今後の話、
あの数式では0.025%のはずだというのは瑣末の話。
 

鉛同位体分析の限界

 投稿者:勉強し直し者  投稿日:2008年 2月 9日(土)22時43分23秒
  >新井氏がデータをとった文献の中には間違いなく、椿井大塚山出土鏡を山崎らが測定した値と、のちに馬淵らが再測定した値の一覧が含まれている。
それらの同一鏡が示す指数の平均は0.27%。これが37例。
また、平原八葉鏡12、13号鏡の2例を追加すれば、39例で平均0.25%。

明らかにこのデータを見ているのに、6例から0.05%を導き出したのは何故か?

 0.05%を、測定の「分解能」というように理解していましたが、再測定
の結果、0.25%の測定差が出たというわけですか。それも数十サンプルで。

 0.05%内でも、表示としてはグラフ的には重ならないわけですが、0.25
となれば、いわゆる「後漢・三国鏡タイプ」(古墳時代青銅器)範囲内で、
1/3ぐらいのバラツキになるんじゃなかろうか。

 大体、鉛同位体比測定には、1mg程度のサンプル量が採取されるらし
いが、1キロの青銅器で、5%の含有量なら50gの鉛がある。
また、鉛は10μから100μ程度の粒になって析出しているが、ごくわず
かに組織マトリックス(青銅成分の組織)内に溶けているものがある。

 サンプル採取場所による分析値のバラツキを拾っているのかもしれない

よってサンプリングの部分的なバラツキも結構大きいのではなかろうか。

 で、馬淵先生は非常に慎重な発言、報告をしていたところ、いいとこ取り
のトンデモ説が出てきたということだ。

 文献を探して、勉強のし直しだ。
 

blogネタ用の単なるメモです

 投稿者:日野陽仁(管理人)  投稿日:2008年 2月 8日(金)05時32分55秒
編集済
  http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/kousou1.htm

http://plaza.rakuten.co.jp/chikushinokuni/diary/20071116/
 

新井説でドンパチ

 投稿者:元気が出だした者  投稿日:2008年 2月 7日(木)01時22分32秒
  http://www.keiryou-keisoku.co.jp/other/gakkai.html

3.11 高麗尺の存在、不在検出の論文
   新井宏論文「古代尺度復元法の研究−よみがえる古韓尺と高麗尺への疑問」(『計量史研究』NO.13)および新井の著書『まぼろしの古代尺高麗尺はなかった』が提起した衝撃。およびこれに対する西村淳の新井論文批判。白崎昭一郎の新井宏論文の検証と批判(計量史研究NO.16)。
 新井の論文とその著書は、4〜8世紀における朝鮮半島や日本の古墳や宮殿・寺院の計測値を収集し、もっともよく合う尺度をコンピューターをりようすることによって客観的導出を試み、その長さ0.268m古墳時代が開始したを割り出し、この尺度の起源を朝鮮半島に求め、古韓尺と名付けたこの尺度が、4世紀ごろ朝鮮半島の政治勢力とともに日本にやってきてことが契機になって古墳時代が開始したと説く。
 西村淳は新井宏のこの研究を統計学の仮説検定の手法の初めて採用したことを評価する。しかし統計学の限界値選択の常套手段等を示して新井の使用した手続きの誤りを指摘、また資料選択と計測方法の問題点も挙げ、また新井の結論を否定する。
 白崎昭一郎は西村と同様に新井論文の功績を仮説検定を方法論として採用したことに限定している。白崎が新井が提示したプログラムによって事例を追いかけてみたところ不能であった。また新井に偏差と誤差の概念の混用があることも指摘する。白崎は新井の古韓尺否定論を十分な論拠をもっていないと結論づける。
 白崎の解析においても、新井の論文・著書にも高麗尺らしい尺度はしばしば登場するのであり、いまの段階ではこれを全面的に否定することは困難でると白崎は述べる。


【研究者相互の切磋琢磨が研究の質をあげる】
 新井の高麗尺の存在否定論とこの研究論文をめぐっての議論は、計量史研究の世界では異例のことであった。ある研究の論証性を評価することは難しいが、その研究分野の研究者が少ない場合には、事情にうとい者はその研究が客観的に分析を行って得られた結論であると簡単に判断されてしまうことが多い。
 岩田重雄は計量史研究に関して研究者相互の切磋琢磨を強調しているが、研究の質の向上にとって一つの分野に複数以上の研究者の存在が重要であり、違う分野同士でもいい意味での張り合いつまり切磋琢磨があることが大事である。
1.新井宏による古韓尺研究ならびに韓国尺度史の研究
 

誰ですか。

 投稿者:元気が出だした者  投稿日:2008年 2月 6日(水)18時41分52秒
  ま、馬淵先生は、所論をすでに公表されているようだ。

 ついでに、「朝鮮半島系遺物領域Dについて」についても、見解がある。

 論文読ませてもらうのが楽しみだ。

>新井氏の0.05%が使えるのを力説した
ドンキホーテとサンチョパンサ
は見たが・・・・・。

 誰ですか。
 

はて

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月 6日(水)07時01分10秒
  反論など見たことも聞いたこともないが・・・・・。

新井氏の0.05%が使えるのを力説した
ドンキホーテとサンチョパンサ
は見たが・・・・・。
 

見ざる聞かざる

 投稿者:このあたりの者  投稿日:2008年 2月 6日(水)06時17分17秒
  反論が出ても聞こえないフリ…  

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月 6日(水)00時41分18秒
  やっと気付いたようだな。
類似指数自体には
反論など出来ないことに。
 

行く前に勉強しとこう

 投稿者:少し楽になった者  投稿日:2008年 2月 6日(水)00時32分22秒
  http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssscp/shuppan/journalall.htm

考古学と自然科学

第55号
馬淵久夫 2007 鉛同位対比による青銅器研究の30年−弥生時代後期の青銅原料を再考する− 考古学と自然科学 55 pp.1-29
橋本哲夫 2007 熱および光励起ルミネセンス観測による焼成考古遺物の蓄積放射線線量評価と石英からの赤色熱ルミネセンス年代測定の重要性 考古学と自然科学 55 pp.31-44
岸田徹・酒井英男 2007 地中レーダー探査による古墳の研究−削平された古墳の復元・盛土量の推定− 考古学と自然科学 55 pp.45-59
守屋豊人・渡邊陽子・佐野雄三 2007 石狩低地帯における続縄文時代前半竪穴住居での木材利用−札幌市H37遺跡丘珠空港内第1号竪穴住居跡出土炭化材 分析を中心として− 考古学と自然科学 55 pp.61-75
廣坂美穂 2007 古代青銅製品の産地推定についての一考察 −朝鮮半島系遺物領域Dについて− 考古学と自然科学 55 pp.77-92
 

みじめ

 投稿者:このあたりの者  投稿日:2008年 2月 6日(水)00時17分9秒
  算式間違いのお笑い指数…  

アホなもの

 投稿者:邪馬台国はどこだ  投稿日:2008年 2月 5日(火)22時47分31秒
  ついでに、
閾値が有効な例を更に出してはどうだ?

意味など最初から明確な類似指数
の否定にいどむドンキホーテらしいから。

御苦労だな。
 

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